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『僕』

僕は、どうやら人間として生まれたらしい。
 
そして、周りの人からは充分「大人」として認識されるくらい
人間としての時間を重ねたのは理解している。
 
 
ただ、いまだに僕には「人間」というものが
よくわかっていない。
 
自分も分かっていないし、他の人間についても全然わからない。
 
 
小さいころは、自分のことも相手のこともよくわかり、
深い友情を感じたこともある。
 
しかしそれは、見えていた世界が小さく、
互いの経験に、それほどの違いがなかったからで、
大人になってしまうと、子供のころに感じたような
強い絆を感じにくくなってしまったように思う。
 
 
そんな僕だから、
人とのやりとりが先天的に上手な人は、
けっして学ばないであろうコミュニケーションの仕方や、
心理などを学び、互いに分かり合えるようにもしてみた。
 
 
が、それは、
「相手を理解しているフリ」であり、
「互いに分かり合えている感覚」を、
一時的に味わうテクニックに過ぎなかった。
 
 
机上の学問ではなく、
実際にコミュニケーションをとってみればみるほど
相手を理解し、自分を理解してもらうことの難しさに、
愕然となった。
 
 
人を深く愛すれば、それだけ愛する人を傷つける。
 
それは、自分のことを分かって欲しいという気持ちが
強く出てしまうから。
 
 
自分の想いを誰かに伝えようとすればするほど、
その思いは、自分の最初感じた想いとは、かけ離れてゆく。
 
それは、相手の世界に存在しないことを伝えるのは無理だから。
 
自分の想いを、相手の世界に届ける「翻訳」をしなければ、
伝わらないから。
 
 
 
「相手のことを理解した後に、自分を理解してもらおう」。
 
 
そんな大前提があるけれど、
じゃあ、どこまで相手を理解できるのだろう?
 
「理解した」なんて、一生訪れないような気もするし、
そもそも相手は生きているんだから、どんどん変化もする。
 
自分は、いつになったら、理解をされる順番が来るのだろう?
 
そんなことを考えてしまった時点で、
心から「理解された」とは、感じなくなってしまうように思う。
 
 
 
そんなわけだから、僕はきっと、
人間のことを、本当は好きじゃないのだろう。と思った。
 
 
 
理解はされたい。
 
 
でも、相手のことを本当に、
とことん理解したいと思っているかというと
それは、はなはだ疑問だ。
 
自分を理解して欲しいから、
相手を理解しようとしている気がする。
 
 
 
僕は、自分という人間がわからない。
 
僕には、他の人間のことがわからない。
 
だから、僕は人間のことが好きなのか嫌いなのかも、
当然わかるはずがない。
 
 
 
でも。
 
 
なぜか深く愛したいとも思うし、愛されたいとも思う。
 
 
近づけば近づくほど。
そして時間や言葉を重ねれば重ねるほど、
 
相手への期待も増えて、その分要求も増えて、
結果「裏切られ」た、と感じるのが分かっているのに。
 
 
 
自分も、他の人も分からないまま、
わかっていない僕が、誰かに勝手に期待をする。
 
自分が本当は何が欲しいのかも分かっていないのに、
相手に「欲しい」とねだり、
 
僕自身が、自分のことをどれだけ大事にしているのか
わからないのに、相手には「僕を大事にして欲しい」
と要求する。
 
 
そんな繰り返しをしながら、勝手に傷ついて、
自分が傷ついた以上に、たくさんの人を傷つけて、
日々を重ね続けていった。
 
 
 
 
——– そんな僕も、周囲から
「老人」といわれるほどの年齢になった。
 
 
一生をかけても、結局、僕は人間のことが好きだったのか、
それとも嫌いだったのか、その謎は解けなかった。
 
 
不完全な形であれ、愛を提供したのだろうか?
 
それとも、多くの人を傷つけた方が多かったのだろうか?
 
 
僕は、誰に、どれだけ理解されたのだろうか?
 
そして僕は、誰を、どれだけ理解できたのだろうか?
どれだけ、理解しようと努力できたのだろうか?
 
 
結局、どの謎も分からないままだったけれど、
最近は、この「終わりない問答」があったから、
僕は僕になれたんじゃないかな?とも思っている。
 
 
 
 
杖をついて散歩道を歩くと、見知らぬ少女が微笑んだ。
 
「こんにちは」
 
 
僕も、しわくちゃな顔をゆるめて、少女に微笑み返した。
 
「こんにちは」
 
 
 
どうやら僕は、人を愛している。
 
僕の、愛のかたちで。

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