男は死んだ。
長い間病気で苦しんだわけでもなく、
やりたい事は、だいたいやってきたので
死んだことに対する後悔は、あまりなかった。
ただ、自分が生きてきた人生が、
本当によかったのか？正しかったのか？
それに確信は持てなかった。
「こんにちは」。
そこに、男に声をかける子供が現れた。
背中に小さな羽根を生やし、
頭の上に光り輝く輪がうかんでいる。
ああ、絵本で見た天使そのままだな。
と男が思っていると、現れた子供はニッコリと笑い
「人生楽しみましたか？」
と聞いてきた。
男は、ずいぶん唐突な質問だな、
と思ったものの、
「ああ、まぁまぁな人生だったと思うよ」
と答えたあと、
「これから私を天国に連れて行ってくれるのかな？」
と、天使に訪ねた。
すると天使は、しばらく困ったような顔をしてから
「ええ。僕としては、
すぐにでも天国に連れて行きたいんですけれど、
そうもいかないみたいで」
と答えた。
「人間の魂って、迷いがあると天国まで浮かんでいけないんです。
俗にいう“浮かばれない”ってやつですね。
僕たちからすると“浮かばない”ですけど。
なので、僕たち天使が道先案内人として
迷える魂の話を聞いて、天国まで連れて行くわけなんです」
と説明した後、
「僕たちがいなかったら、みんな思いが晴れないから
この世はユーレイだらけになっちゃうんだよ」
と自慢するように胸を張った。
男は天使の話を聞きながら、
そんなものかもしれないな、と思い
「じゃあ、私の迷いを聞いてくれるんだな？」
と、天使に向き直った。
天使は、
「今まで、もう数え切れないほどの魂を
天国に送り届けているから、
たいていの迷いは、任せてよ」
と、悪戯っぽく笑った。
男は天使にうながされると、
どうやって説明すればいいのかを考えながら
ゆっくりと話し始めた。
「知っているかもしれないが、
私は写真家としてずっと生きてきた。
風景、人間、動物、植物、
また食べ物や建築物など、
さまざまなジャンルの写真を撮り続けてきた。
それ自体に後悔はないのだが、
ふと思ってしまったんだ。
“私の撮っている世界は、真実なのだろうか？”と」
天使が黙ってうなずいているのを見ると
男は話を続けた。
「写真という字は“真を写す”と書くじゃないか？
しかし、街なかに咲く花にピントを合わせれば
そこを花畑のように撮ることも出来るし、
しようと思えばいくらでも撮った写真を加工も出来る。
花に限らず、動物だって、食べ物だって
ビルだって、なんでもそうだ。
私の迷いは、そこにある。
私は自分の人生で、真実の世界を見てきたと
言えるのだろうか？」
男は、この問いをずっと胸に秘めて迷ってきた。
誰にも共有されない悩みだと思っていたので、
今まで誰にも語ることはなかった。
しかし、今はどうせ死んでしまったのだし、
たくさんの魂を天国に送り届けてきた天使ならば、
男の問いに、はっきりと「ＹＥＳ」と言ってくれるかもしれない。
天使に肯定されたら、男も理解できるというものだ。
しかし、天使が言ったのは、
「ＹＥＳ」でも「ＮＯ」でもなかった。
天使はニコニコ微笑みながら男に伝えた。
「写真は真実を写すよ。
ただ、写す真実は、“撮る人の”真実だけど。
世界がどうであれ、撮る人にとっては、
その世界が真実なんだ。
ゴミ溜めの中に咲く花を写したのならば、
それがその人にとっては真実なんだ。
撮った人のしわを加工して消したのであったら、
しわがないのが、その人にとっての真実なんだよ。
写しているのは、世界じゃなくて
“自分の世界”だし、もっと言うと自分自身だ」
天使は続ける。
「写真だけじゃない。
極端に言ってしまえば、芸術っていうのは
“世界を切り取ること”だ。
自分にとっての世界を切り取ること。
絵画も、それが写実画であれ抽象画であれ
描く人の世界の見え方の一部を切り取っただけ。
文章も、自分の側面から見た世界を
言葉に乗せて切り取っただけ。
彫刻も、木や石に眠っている無限の可能性を
彫刻家の世界で削り取り、切り取っただけ。
芸術は、世界を切り取ることなんだ。
どの芸術も、世界の全てを表現することは出来ない。
もしそれができたら、芸術じゃない。
だから、あなたが写してきた世界は、あなたの真実。
誰かから批判されたのだとしても、
それは見ている世界が違うんだから当然なんだ。
世界は、それ以上でも、それ以下でもないよ」
男は、天使の話が分かるような、分からないような
感覚だった。
天使は、男がまだ不満そうなのを見てとると、
肩をすくめながら話を続けた。
「そうだね。
そしてこの話は、いわゆる芸術家だけの話じゃない。
世界は、この世の人間の数だけ無限に存在する。
ゴミ溜めに生きる人でも、花のような人生を送る人もいる。
どんなに豊かな暮らしでも、裏切りと嘘に
おびえて生涯を送る人もいる。
天使が人生を語るのもおかしいけれど、
人生って芸術と同じで、
切り取った自分の世界を生きることなんだよ」
「切り取った、自分の、人生。。。？」
「そう。今回のあなたの人生は、
写真家という世界の切り取り方で
あなたの世界を生きた。
でも、前の人生では、
また別の切り取り方で世界を見た。
大金持ちという世界の切り取り方で見たこともあるし、
生まれてすぐ死ぬ、という世界の切り取り方で
見たこともある。
一回の人生で、世界のすべてを見るのなんて
もったいないと思わない？
だから、何回も生まれ変わって
世界を味わいつくすんだと思うよ。
本当にそうなのかは、天使の僕じゃなくて
神様しか知らないんだけれどね」
男は、天使の説明を聞いているうちに
自分の人生、いや「今回の」自分の人生について
あらためて思い直してみた。
たしかに、自分の人生を生きた。
カメラのファインダーを通して世界を切り取ってきた。
そこにすべては写し出せなかったかもしれないけれど、
写ったものは、すべて自分の世界の真実だった。
カメラのファインダーを通して世界を見てきたつもりだったけれど、
その前に自分の眼のファインダーや、心のファインダー、
そして魂のファインダーを通していたのかもしれない。
すると。
ふわり、と男は自分が浮かび上がっていく感覚を覚えた。
自分では無意識のうちに、魂の迷いがなくなったのかもしれない。
天使は男の魂と一緒に、空高くまで着いてきてくれた。
高く高く浮かび上がっていくと、
空に大きな、柔らかい光を放つ球が浮かんでいた。
おそらく、そこが天国の入り口なのだろう。
男は最後に天使に聞いた。
「私はまた、地上に行って
違う世界の切り取り方を体験するんだな？」
天使はにっこりと笑ってうなずいた。
「そう。天国でしばらく休んだ後、
また地上へ戻る。今回とは違った切り取り方で。
旅は続くんだよ」
男は満足そうにうなずくと
天使に礼を言って、天国へと吸い込まれて行った。
天使は笑顔で男の魂を見送ったあと、つぶやいた。
「旅は続くよ。
僕が最初に聞いた
“人生、楽しみましたか？”
という質問に、心からのＹＥＳを即答するまで」