「本物」と「ニセモノ」って、何が違うんだろうね?
モノにしても、人物にしても、
「これは本物」「あれはニセモノ」
「あの人は本物」「あいつはニセモノ」
なんて言うじゃない?
それって、もっとも本質的な違いって、
なんなんだろう?と、考えてみたんだよね。
「本物」から連想するイメージは…
流行りすたりに流されない。
時間が経っても、愛され続ける。
重厚感がある。
こだわり。
とかかな?
反対に「ニセモノ」から連想するイメージは…
軽薄
上っ面
物真似
陳腐
とかになるだろうか?
そんな連想を巡らしているうちに至った、
「本物」と「ニセモノ」を分けている差。
いろいろあるだろうけれど、ひとつは
「見えないところが充実している」
ということが挙げられるんじゃないかな?
人物にしても、モノにしても、
表面からパッと見ただけでは分からないけれど、
見えないところに、大きな充実感を感じる。
その人が今、そこにいるのに至ったプロセスや、
苦労やこだわりが、全部見えるわけじゃない。
でも、その「見えないもの」が充実しているからこそ、
その人は「本物」として存在している。
そのモノが完成するのに至ったすべての経緯や過程は
よくわからない。
また、たとえばカバンとかなら、裏側の縫い目とか、
料理とかなら、完成するまでの数々の試作品とか、
そんなものは、パッと見ただけではわからない。
でも、そんな「見えないもの」の数々があって、
はじめてそのモノは「本物」として、そこにある。
そんな気がするんだよね。
ところで、
普段生活を送っていれば、いろんなことが起こるよね。
仕事をしていても、あなたの苦労とかを
全然分かってくれない上司とか、
相手を喜ばせようと思ったのに空振りしちゃったりとか、
時間をかけてがんばって作ってきたのに、
ふとしたはずみで、全部がパーになっちゃったりとか。
そんな時、私なんかは
「どうして、私の苦労を分かってくれないの?」
とか、
「なんで、全部が無駄になっちゃうの?」
なんて思っちゃう。
でも、
理解をされなかったり、膨大な無駄をすればするだけ、
もしかしたら「本物」に近付いているのかもしれない。
だって、本物は「見えないものが充実している」んでしょ?
自分の苦労や努力やこだわりが全部、全ての人に
わかっちゃうんだとしたら、それはもしかしたら
「本物」では、ないのかもしれない。
いつの日か、
「なんか、良く分からないけれど、すごい」
「本物を感じる」
なんて言われるためには、
今みんなには分からない「見えないもの」を
充実させていく必要があるのかもしれないね。
ではではー
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