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こんにちは、成果ちゃん。

1月も後半に入ってきたということで、
 
「今年も色々がんばるかぁぁー!」
 
と、ほのぼの気合いを入れていたところで、
 
ふと、
 
 
「そういえば、過去にはどんな目標を立てていたのかな?」
 
と、今までに設定した目標を書いた紙を
見直してみたのね。
 
(ええ、目標マニアなので
 何年も目標立てていますけど、なにか?笑)
 
 
すると、けっこうな確率で
自分が立てていた目標が叶っていることに気がついたんだよね。
 
 
 
達成した時を覚えているもの、
 
いつのまにか実現していたもの、
 
「そういえば、こんな目標を立てていたな」
と、記憶の片隅に追いやられていたもの。
 
 
それは色々だったんだけれど、
さまざまな成果を味わって来たんだなぁ、
と、しみじみ思ったんだよね。
 
 
別に、誰かに評価されるとか、
他の人と比べて凄いのかどうなのかは関係なく、
 
 
「昔できていなかったことが、できている」
 
「以前は体験していなかった体験をしている」
 
という事に、ありがたいなぁ、と感慨深くなった。
 
 
 
そして、
 
そのあと、ふとインスピレーションが降りてきたのが
 
「あ、成果って、赤ちゃんと同じなんだろうな、きっと」
 
という言葉。
 
 
 
このままだと意味不明過ぎて
不思議ちゃんになってしまうので説明すると。
 
 
よく、 
 
「赤ちゃんは天からの授かりもの」
 
みたいに言うじゃない?
 
 
どんなに欲しいと願っても、
「その時」が来ないと、授かることができない。
 
そうかと思えば、ひょんなタイミングで
やってきたりもする。
 
 
 
何かしらの成果もそれと同じで、人がどんなに
 
「このタイミングで、この成果が欲しい!」
 
と願っても、そんなことは天はお構いなしで、
「その時」が来たら、授かる。
 
逆に、「その時」じゃなければ、どんなに願っても授からない。
 
そんな感じなんじゃないかな?
 
 
 
生命の奇跡である赤ちゃんと
目標の成果を同列に扱うのが良いのかは分からないけれど、
同じような性質があるのかもしれないな、
 
なんて思ったんだよね。
 
(この表現で気分を害した方がいましたら、謝ります)
 
 
 
 
で。
 
 
もし同じような性質を持っているのだとしたら、
人間ができることは、
 
「成果を得られるためにできることをやる」
 
という、当たり前のことをやるだけなんだなぁ、
なんて、当然のことをあらためて思ったんだよね。
 
 
 
赤ちゃんも「その行為」がなければ
どんなに願っても来ることはない。
(注:イエスキリストを除く)
 
 
 
「その行為」をしたとしても
いつ授かるのかは分からない。
 
それは、天の采配に任せるしかない。
 
 
でも、行為がゼロなら、可能性もゼロだ。
 
 
 
 
たぶん、
 
「コレコレが欲しい」
 
という成果も同じで、
 
 
成果に向かって努力することしか、私たちには出来ない。
 
そして、その努力がいつ、どんな形で報われるのかは
天の采配に任せるしかない。
 
が、何も行動をしなかったら、
成果は、いつまで経ってもゼロでしかない。
 
 
 
種を蒔いても、どの種が花咲くかはわからない。
 
努力しても、どの努力が成果に結び付くのかは分からない。
 
 
しかも、報われるタイミングは
いつ来るかを計ることが出来ない。
 
 
でも、それでも
 
「いつかきっと授かる」
 
と、日々できることをする。
 
 
ホントもう、それだけしかないように思う。
 
 
 
いろんな学びは、
 
「今の努力が、間違った方向になってないか?」
 
という軌道の確認にはなるけれど、
成果をワープで持ってくることにはならない。
 
 
行動はコントロールできても、
結果とタイミングはコントロールできない。
 
 
ただ、授かるのを信じて、やることをやる。
 
 
そんな風な心構えが大切なんだろうね。
 
 
 
「赤ちゃんと、目標の成果を同列にするなんて
 けしからん!」
 
と思った方は、ごめんなさい。
 
 
ただ、本質論と言う意味において
多くのフィルターを取り除いた形で捉えてもらえれば嬉しいです。
 
 
 
さて。
 
 
私は、今日やることをやります。
 
あなたは、今日なにをやりますか?
 
 
ではでは。
 

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