唐突だけれど、
「手段の目的化はダメ!」
みたいな話ってあるやん?
健康になるためにダイエット始めたのに、
体重計の表示を減らすことに執着しちゃったり。
売上を上げるために開いていた会議が
会議そのものを開くことが意義になっちゃったり。
そんな、手段の目的化。
たしかに、今書いたような例は
あまり素敵な選択ではないと思う。
だけど、
「手段の目的化=ダメ!」
っていうのは、違うような気がするんだよね。
目的、って、
実は、際限のない問いかけだ。
たとえば。
「今回の会議は、この掃除機を売るのが目的だ」
「なんで?」
「わが社の売り上げを上げる目的のためだ」
「どして?」
「この会社で出世して、
給料をアップさせるのが目的だからだ」
「WHY?」
「お金が欲しいからだ」
「なんで?」
「もっと贅沢したいし、生きていたいからだ」
「それで?」
「幸せを感じたいのだろうな」
「幸せって?」
「。。。さしずめ、
この掃除機が売れたら幸せかな?」
みたいになるやん?
そうなんだよ。
どんどん「目的」を高次化していくと
どんなしょうもない目的も、崇高な目的も、
「幸せを感じるのが目的」
となっちゃうんじゃないかな?
筋肉ムキムキになるのも、
好きな異性に振り向かれるのも、
燃えないゴミを捨てるのも、
みんなから人気者になるのも、
写真を撮るのも、
料理を作るのも、
日曜大工でドリルで木に穴を開けるのも、
大金を稼ぐのも、
世界中から原爆をなくそうとするのも、
出そうで出ないクシャミを出そうとするのも、
突き詰めて考えていくと、
「幸せを感じるのが目的」
だと言えるんじゃないかな?
だとしたら、
今、目の前に現れている現象と
今までもこれからも、すべての行動は
「幸せを感じる目的のための手段」
とも言える訳じゃない?
ならば、
「目的を見失うな!」
「え?その目的も全部手段じゃん」
ってなる(←理屈っぽくてスミマセン)
目的、つまりゴールそのものに幸せはない。
どんなゴールにたどり着いても、
また新しい何かが見えてくる。
一瞬の達成感はあったとしても、
それが幸せそのものなのか?というと
そうじゃないような場合も多いだろう。
だから。
個人的には、
「手段の目的化」
ということをおそれる必要はなく、
いろいろと自分で試して行動していくうちに
【どの手段が自分を幸せにするのか?】
ということを発見することこそが
人生で一番大切だ、とも思う。
すべて最終的には、
「幸せを感じるための手段」
なのだ。
目的とは、
「幸せを感じるための通過点設定」
であり、
「本人の幸せの抽象度を下げた手段」
だ。
なので、
「あー、これやってる時が幸せー(^^)」
というものや、
「この人と会えていると幸せー(´▽`*)」
という人に出会えることこそが、
究極の目的達成だと思うんだよね。
さてさて。
心配すんな。
人生でやることは、全部手段や。
どの手段が、あなたを幸せにするのか?
それを見つけられたら、
その時点で勝ったようなもんや。
ワタシは、文章書けて、読んでもらえて幸せやで。
で、あなたはどうなん?
ではでは!