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好きがすべて。

好きこそすべて。
 
今回のは、賛否両論かな?(ニヤリ)
 
  
先日、旧い友人から連絡があった。
 
 
その友人とは学生時代、
一緒にボードゲームを作っていた仲。
 
(※ 学生の時からオタクですワタシ)
 
 
 
久しぶりで、どうしたことか?と
メッセージを見てみると、
 
 
「一緒に作っていたゲーム、
 販売のめどが立ったよ」
 
 
ということだった。
 
 
 
かれこれ25年以上前に一緒に作ったゲームを
彼はずっと温め続け、改良に改良を重ね
現代にも受ける形で世に出そうとしているのだ。
 
 
そんな中、彼は、
 
「ゲームシステムの原案そのものは
 イグが作ったから」
 
と、義理堅く連絡をしてくれた、というわけ。
 
(ちなみに、そのゲームは
 当時も雑誌で賞をとったりしていた)
 
 
 
いやぁ、ホントすごいよね!
 
 
四半世紀以上、コツコツと見直してきたんだから
それはもう、私のものではなく、彼のものだ。
 
 
少なくとも、今の私は
そのゲームを世に出そうとしていないのだからね。
 
 
 
 
 
そんな連絡を受けて、改めて思った。
 
 
「好きこそすべて」
 
 
ということを。
 
 
 
 
もう、極論しちゃうと、
 
 
人は「生きるため」と、
「好きなことをやるため」でできている。
 
 
絵を描く、歌を歌う、踊る、写真を撮る、文章を紡ぐ。
 
スポーツする、筋トレする、何かを学ぶ。
 
ビジネスを大きくする、コミュニティを作る。
 
ゲームを作る、映画を作る。。。
 
 
そんな社会的に建設的なものばかりでなく、
 
消費する、怠ける、怒る、といったものまで。
 
 
 
そのどれもが、究極的には
 
 
「それが好きだから」
 
「そうするのが好きだから」
 
 
やっているのだと思う。
 
 
 
果ては、「悟りを得る」なんていうのも、つまるところは、
 
「悟っていないより、悟っている自分が好き」
 
という理由から目指しているようにも思う。
 
 
 
 
そして。
 
 
きわめて個人的には、そのどれもが
平等に意義のあることだと思う。
 
 
どれが高尚で、どれが高尚でないというのは、
社会的な背景か、個人の思い込みの中にしかない。
 
 
 
「好き」というものさしで測った時には、
 
 
ビジネスを拡大するのも、
 
悟りを得ることも、
 
ひきこもってアニメを見ているのも、
 
 
本人の人生を幸せにするかどうかという意味では
同価値だと考える(異論は認める)。
 
 
 
人様の役に立った方が、本人が得ることも多い。
 
ただ、それをしなければならない、というわけでもない。
 
 
 
人に迷惑をかけ、嫌われ、孤独でも、
 
本人が、心からそれが好きなら、それでいいんじゃないか?
とも思う。
 
(ホントに?とは思うけれど)
 
 
 
 
逆に言えば。
 
 
本人が「好き」と思えないことをやり、
自分自身を騙し続ける生涯こそ、
もっとも価値のない人生だとも思う。
 
 
たとえそれが、社会的には称賛され、
人々の尊敬を勝ち得て、ぜいたくができるようになっても。
 
 
 
 
わかってる。
 
 
今回の話は、ものすごい極論。
 
 
 
 
でも、究極的には
 
「好きこそすべて」
 
を否定できないんだよね。
 
 
 
人さまに迷惑をかけてはいけない、
と思う一方で、
 
 
森羅万象を作ったカミサマは、
 
 
「いろいろ用意したから
 好きなことをやりなはれ」
 
 
「今世でのあんたの役割を
 思い切り果たしなはれ」
 
 
と見守っているようにも思う。
 
 
 
人から尊敬される役割を担う人。
 
その人を助ける役割を担う人。
 
悪役、ダメな役を担う人。
 
 
それも実は、すげー大きな視点で見れば
「同価値」「意味のあること」なんじゃないかな?
 
 
 
そして、その根底に流れるのは
 
「それが好き」
 
「そうしているのが好き」
 
ということなのだと思う。
 
 
 
なので。
 
 
ワタシはワタシの魂が叫ぶ「好き」をやる。
 
 
あなたも、あなたの魂がふるえる「好き」に従って
生きるのが美しいと思う。
 
 
お互い失敗もするだろうし、
うまく行かないこともあるだろう。
 
それで社会的にどうなるかは、わからない。
 
 
 
でも、たぶん「好き」に従って生きた人生は
そうじゃない人生よりも、後悔は少ないと思う。
 
 
あなたの「好き」が、あなたを幸せにしますように。
 
 
久しぶりに連絡をくれてありがとう。
 
 
 
 
ではでは。

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