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盛りコトバ。

最近は、フォトショップとかアプリとかで
写真を自由に加工できたりもする。
 
それで自分のプロフィール写真を
キレイに見せたりするのは、いいことだと思うんだ。
 
 
誰だって、自分に良い印象を
持ってもらいたい気持ちはあるし、
相手だって、気持ちのいい写真を見たいだろうから。
 
 
ただ、
 
なにごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、
やりすぎると、、、ねぇ?
 
 
 
SNSで知り合って、はじめて会った時に
目の前にいるのに気づかれなかったり、
 
 
「〇〇さん、、、、(え?)、、
 は、、、はじめまして、、、」
 
 
とこっちが顔を作りすぎていたせいで
相手に作り笑顔をさせてしまったら残念だ。
 
 
 
 
もちろん、美しいのは、いいことだ。
 
そして、そのための工夫をすることも。
 
 
ただ、それは自分という存在そのものを
際立たせる方向であって、
自分以外のものになる方向になると、もったいない。
 
 
だから、写真加工・デジタルメイクは
 
「自分らしさを失わない程度」
 
に抑えるのがいいと思う。
  
(ってか、写真のプロたちに
 そう教えてもらった。ありがとう!)
 
 
 
 
そして。
 
 
言葉を使う者としては、
 
「言葉の加工も、ほどほどにね」
 
なんて思う。
 
 
 
自分が輝いている存在でいたい。
 
みんなから愛されたい。
 
 
そんな風に思うのは、ごく当然のことだ。
 
 
 
だから、
 
 
写真でいい景色をいい構図で撮るのと同様に
日々の発信の中で自分の「いい時間」を
切り取るのもアリだし、
 
 
写真を加工するように
文章を多少「盛った」表現にしても愛らしいと思う。
 
 
 
その上で、
 
 
あまりに自分とかけ離れた言葉を使い続けるのは
あとで大変なんじゃないかなぁ? ねぇ?
 
 
 
みんなに受け入れられやすい
耳ざわりのいい言葉を使い、
愛と努力と貢献心と向上心に満ちた人格者を装う。
 
 
本当に思っていることならばいいんだけれど、
いわゆる自分の見せ方、ブランディングに縛られすぎて
いつのまにか、思ってもないようなことを発信するようになると
 
「自分ではないもの」
 
へと舵を切ることになる。
 
 
 
 
言葉は、写真以上に加工が簡単だ。
 
いくらでも、オシャレに「身にまとう」ことができてしまう。
 
 
 
それを続ける、続けないのは本人の自由だけれど、
 
いざ実際に会った時に感じてしまう
その違和感は、写真を盛っている比ではない。
 
 
 
 
「あれ?なんか、この人、違うぞ。。。???」
 
 
という、違和感、、、というか異臭感がただよう。
 
 
 
直接会った場でも、
普段から発信しているような言葉を発していたとしても、
言葉以外で全体から感じる違和感がピークに達して
心の警戒アラームにスイッチが入る。
 
 
 
その結果、どうなるか?
 
 
同じように「言葉を盛り盛りにしている人」だけしか
集まってこないようになる。
 
 
そして、自分の嘘がバレていないと思っているのは
自分だけ、という残念な結果になるんじゃないかな?
 
 
(まぁ、本人がそれでいいなら問題ない。
 どんな生き方が正解、ってのは、ないんだから)
 
 
 
さてさて。
 
 
 
自分をキレイに見せたい。私もそうだ。
 
自分を魅力的な人物だと思って欲しい。私もそうだ。
 
 
そのために、加工するのも悪くない。
 
 
ただ、やりすぎて「自分でない者」を愛されても
そこには空しさしか残らないような気もする。
 
 
 
いやー、気をつけたいと思うわ。
 
マジでマジで。
 
 
 
 
ではでは。

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