スポンサーリンク

幸せの順番。

道は違えど、きっと誰もが
「幸せになりたい」と願っている。
 
そして、もっとも幸せを噛みしめるためには
スキップさせてはいけない「順番」がある。
  
 トトト
その順番とは、
「やる → なる → ある」の順。
 
 
 
やる。
 
欲しいもの、欲しい状態をみつけ、
それを自分のものにするために、
何かしらの行動をとる。やる。
 
 
 
なる。
 
目指していた状態を
自分の現実として体現する。なる。
 
 
 
ある。
 
「それ」が近くに、
あるいは自分と一体化している状態が
日常と化す。ある。
 
 
 
 
この「やる、なる、ある」の
プロセスを経ることが、
もっとも幸せを感じられる。
 
 
 
思い出してみて欲しい。
 
あなたが深く幸せを感じられる思い出を。
 
 
きっと、
 
「やる → なる → ある」
 
を経ているはずだ。
 
 
 
 
いきなり「ある」だと、どうなるのか?
 
人は、すでに「ある」ことには
なかなか幸せを感じることはできない。
 
 
 
私たちは常日頃から、四六時中
「人間である」ことを噛みしめられるだろうか?
 
 
十代のころ、、
「十代である」ことを幸せに感じていただろうか?
 
 
あなたは、「私は○○である」と
自分の名前をつぶやいた時、
俯瞰せずに感謝できるだろうか?
 
 
 
そう。
 
 
「ある」は、自分と一体化しているので、
幸せを感じることは難しい。
 
生まれた時からそうで「ある」ものに
人は幸せを感じられないのだ。
 
 
頭の中で切り離して考えるか、
誰か、何か、いつかと比較しない限り、
 
つまり「ある」を自分から分断した時にしか
その「ある」は幸せをもたらさない。
 
 
 
 
 
では、いきなり「なる」だと、どうなるか?
 
 
たぶん、もっと不幸だ。
 
「なる」というより、
「なってしまった」のだろうから。
 
 
 
宝くじでお金持ちに「なる」。
 
たまたま注目される人に「なる」。
 
親の望んだ職業や役職に「なる」。
 
 
これらが、あなたに心からの充実感と
本物の自尊心をもたらすだろうか?
 
 
 
あなた自身は何も貢献していないけれど、
自分が所属しているチームが
何かを達成した時。
 
あなたは、心からの充実感を
感じることができるだろうか?
 
全力を出してことに当たったメンバーと
肩を並べて喜び合うことができるだろうか?
 
 
「やって」ないのに、「なって」しまった。
そこに人生の醍醐味を感じられるだろうか?
 
、、、それが答えだろう。
 
 
 
 
他者から見ればうらやましいこと。
 
本人も、一時は喜ばしいこと。
 
 
それはそうかもしれない。
 
 
でも、そうだとしても、
それは自分が望んだわけでもなく
自分の実力で手に入れたわけではない。
 
 
 
頭を空っぽにして生き続けられれば
あるいは幸せかもしれない。
けれど、そうでない方が多いだろう。
 
 
理想と現実に苛まれるのではなく、
現実そのものが本人にのしかかるのだから。
 
 
「望んだものじゃない」
 
「自分の実力ではない」
 
「誰かの操り人形だ」
 
「時代に翻弄されただけだ」
 
 
 
そこまで思い煩わなかったとしても、
心の底からの充足感は得にくいだろう。
 
自らが望んで、
努力して「それ」を手に入れた人と比べて
心のどこかで引け目を感じて生きることになるだろう。
 
 
 
 
だから。
 
 
「ある」前に「なる」。
「なる」前に「やる」。
 
 
それが大事。
 
 
「やる」を経て「なる」。
そして「なる」を継続させて「ある」。
 
 
「やる、なる、ある」のプロセスをくぐり
手に入れた現実にこそ、本当の価値が宿る。
 
それが人間の性なのだ。
 
 
 
 
そして。
 
 
仮に途中で挫折し、
 
「ある」を手に入れられなかったとしても。
 
「なる」に至らなかったとしても。
 
 
 
あなたの「やる」は、
 
何もしないまま「なる」を手に入れた人よりも、
 
生まれた時から「ある」だった人よりも、
 
そしてもちろん「やらない」を選んだ人よりも。 
 
 
 
ずっとずっと光り輝く。
 
あなたに幸せをもたらしてくれる。
 
 
 
 
さて。
 
 
「やる」から始めなければ、
真の幸せには辿り着かない。
 
そして、自分がやったことが
うまくいっても、そうでなかったとしても、
それはあなたの人生を彩る。
 
 
だったら、やればいいんだよ。
 
 
あなたが今「やる」を選んでいることが、
あなたの「なる、ある」に続きますように。
 
 
 
ではでは。
 
 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク