今回は(も?)個人的な
好き嫌いの話。
いろんな人がいろんなことをして
それを発信しているのは
とても素敵なことだと思う。
その上で、どうも
「これは、ワタシの好みには
合わないなぁ」
というものがあるのは、
そりゃあ、仕方のないこと。
で、じゃあ具体的には
どんなものが好みじゃないんだろう?
と考えてみると、なーんか、どーも
「好みに合わないものが多いジャンル」
ってぇのがある。
それらは、たとえば、
・ガツッと稼ぎます系
・集客できますよ系
・子宮系
・異性をイチコロ系
・女性性がなんちゃら系
とか、とか、とか。
でもね。
そういったジャンルを発信している人の中でも
スッと、気持ちよくアウトプットしている人もいて
「こりゃあ、別にジャンルの話では
無いようだぞ??」
と考え直して、
「じゃあ、何がワタシは好かんねん???」
と、つらつら考えてみた時に。
ああ、そうか。
「品」だわ。「品位」。
なんて風に思い至った。
上記に挙げたようなジャンルって、
けっこう人の欲求や欲望に
ダイレクトにつながっているものじゃない?
金銭とか、性とか。
なので、なおのこと品位を持って発信しないと
けっこうクドいというか、
毒々しいオーラをまとってしまっているように
感じるんだろうね。
(あくまで私の個人的な捉え方だけれど)
じゃあ、そこで感じる「品位」って
一体なんなのか?
それは、「和」なるものなんじゃないかな?
と思う。
「和」ってのは、日本人の美学的なものでもあるし、
そのまま調和でもある。
なんとなく、私が苦手とする発信には
対立構造みたいなものが感じられて、
「今まで損をしていたでしょ?」
「得をする側に回りましょうよ」
「もっとワガママに生きていい」
「私のところに来れば、利する側に回れるよ」
というメッセージで、
そのメッセージは究極的には
「発信をしている私を承認、肯定してほしい」
「私に利する形の社会になればいい」
というコンプレックスが垣間見られてしまう
ように受け止めてしまうのは、
私自身のコンプレックスのなせる業なのかな?
「自分が利するように」。
そこには、ネイティブアメリカンを侵略し、
自分たちだけが利する行為を繰り返した
野蛮さを感じてしまう。
ビジネスは奪い合いじゃない。
「月に○百万円の売上に成功!」
って、お客さまの方を向いている発信じゃない。
「たった3カ月で○○人の集客が実現!」
って、一人ひとりを見ていない。
「このフレーズを使えば
恋愛も婚活もバッチリ!」
そんな形でパートナーになって
相手は幸せになるだろうか?
「女性性を開いて
もっと自由に生きましょう!」
自分を開くこととワガママになることは違うし、
まずは相互理解のためには、相手を見る方が
丁寧な生き方なのではないだろうか?
子宮系は、ちょいわかんない。
いや。
もちろんそれぞれの内容は
必要としている人がいるし、
そうやってアピールするのも分かる。
そして、ビジネスをやっているのであれば
売上アップや集客は意識するに決まってるし、
異性にとって魅力的であろうとしたり
本来の自分のまま生きたいと願う気持ちもわかる。
私だって、そのすべての欲求を持っている。
ただ、
その発信は、本来の日本人が大切にしてきた
調和や謙虚さが失われていないだろうか?
そこに、相手に対する思いやりや、
共存しているという公共性は、あるだろうか?
興味はある。
でも、それを煽るようにダイレクトに
発信しているものには、
日本人の感覚からすると、違和感がある。
「欧米か!」
と、ネイティブアメリカンと肩を並べて
ツッコミたい気持ちになる。
いやね。
そんなことを言うワタシだって、
どれだけ品位や和の心があるかなんて
ぜんぜん自信がない。
でも。いやだからこそ。
そういったダイレクトな発信を見て反応し、
「うわー」
と思うのだろう。
欲求は、ある。
自分だって同じような発信もしているだろう。
ただそこに感じる、
心の中のささいな拒絶反応も大切にしたいな、
なんて思うのでありんす。
自分の発信も、人の欲求に寄り添いつつも、
全体的な和や謙虚さという品位も大切にしていければな、
なんて思います。
「お前が言うな!」
というのは、一番分かっておりんす。自戒をこめて。
ではでは。