つい先日、新しい仕事の準備で
昔のハードディスクを引っ張り出していたら、
当時の写真も出てきた。
かれこれ15年以上前の写真とかも
いろいろと出てきて、
「うわ、懐かしいなぁ。。。」
なんて感慨にふけっていたんだけど、
それと同時に見てとったのが、
「あれ?、、、
なんか、どれも幸せそう。
てか、悩みなんか、なさそう」
みたいな自分の姿。
いやね。
10数年前とはいえ、
その時その時で、絶対いろいろとあったはずなんだよ。
今見ると、どんなに
「うわぁ、、、頼りなさそう。。。」
とか、
「指先でチョンってしただけで
100ダメージくらい受けそう~」
みたいな、ノホホンとした顔をしてても
やっぱり、いろいろと悩んでいたはずなんだよ。真剣に。
なのに、
写真を見たら、おおむね幸せそうだし、
その当時を思い出してみても、
そこまで辛くはなかったようにも思える。
写真じゃなかったとしても、
だいたい5年以上前の話ともなると、
「なんか、幸せだったなー」
と思ったり、あるいは
「あの時は大変だった、、、、でもよかった」
となったりもする。
あなたは、どう?
だいたい、そうじゃない?
で。
そこで思ったのが、
「悩みとか、つらい感情、不幸ってのは、
エネルギーが強く、鋭く、濃く、そして短いのかも」
「楽しいとか、うれしい感情、幸せってのは、
エネルギーが微弱で、ふわふわしてて、薄く、
そして長く続く波動なのかも」
ってこと。
そう。
悩みが一つあるだけで、
日常生活への影響力は大きい。
真っ白いシーツの一点に
ポツリと黒いしみがあるかのように、気になる。
他の人から見たら、さほどの事じゃなかったとしても
チクリと胸を刺し続けたりもする。
でもそれは、「つらい」というエネルギーが
「強く、鋭く、濃く、そして短い」
という特性があるからなんじゃないかな?
思い悩んでしまうのは、エネルギーが強いから。
だから支配されるかのようになる。
チクリと胸を刺すのは、鋭いから。
「チクリと胸を刺す幸せ」なんて、ないじゃない?
重い気持ちになってしまうのは、濃いから。
「思いの湿度」みたいなのが、きっと高いから。
でも、
そのエネルギーが長く続くことはない。
キャラの濃い一発芸人のように、
いつのまにか風化して行ってしまう。
その反対に。
幸せのエネルギーは、かよわい。
あるかないかも分からなくなったりもする。
だってそれは、
「微弱で、ふんわりしてて、薄く、そして長い」
から。
主張の激しい「つらさ」に対して、
「しあわせ」は、すみっこでニコニコしてるんだ。
針のように鋭い「つらさ」と違って
「しあわせ」は、綿のようにふわふわしてるんだ。
重く濃い「つらさ」に比べれば
「しあわせ」は、吹けば飛ぶような希薄さなんだ。
でも、
それはずっとずっと長く永く生き続ける。
「つらさ」が息絶えたあとも。
だから私たちは自分の過去を振り返った時には
「しあわせだったあの頃」を思い出せる。
そうであるならば、
仮に、今あなたがとても
つらくても、大丈夫。
あなたの胸を苦しめる
強く、鋭く、濃い痛みは、
いつかは必ず幸せに白旗を上げる。
そして、「いい思い出」へと昇華する。
長期戦では、必ず「しあわせ」に軍配が上がる。
間違いない、大丈夫。
こんな風に「勝負が決まっている戦い」なのだから、
今つらくても、
「ああ、またすぐに消える
濃い一発芸人がきたわ」
くらいに構えられるといいのかもね。
まぁ、そうは簡単じゃないのは、
もちろん分かっているけれど。
さらに言えば。
望むことなら、他の人が抱えている
つらさに関しても、
「私には届いていない
強く鋭い痛みがあるのだろうな」
と、分かってあげられる
気持ちを持てれば、とも思う。
なにせ、「つらさ」は時間的にも短い上に、
届く距離も短いように思うから。
自分との関係性が離れれば離れるほど、
うそのように痛みを感じなくなってしまう。
薄情なモンだ、私は。
なので、
「すべての人に」
ってのは、私には難しいけれど
せめて大切にしたい人の「つらさ」は
分かるような人間であれればな、と思う。
(できては、いない)
さてさて。
「つらさ」は強く、鋭く、濃く、そして短い。
「しあわせ」は弱く、ふわふわしてて、薄く、そして長い。
それさえ忘れなければ、きっと大丈夫だと思う。
きっと大丈夫。
あなたが幸せでありますように。
ではでは。