昨日、仲間の結婚披露宴に参列させてもらった。
以前、一緒に仕事をしていた男の結婚で、
たくさんの苦労とチャレンジを共に乗り越えてきた
同志なので、本当にうれしかった。
参列者として、
以前の仕事仲間とも久しぶりに会い、
お互いの旧交を温めている中で、
「ああ、本当に素晴らしい仲間と
一緒に仕事をしてきたんだなぁ」
と、想いを噛みしめていたんだよね。
(とか言いつつ、仲間とはバカ話しか
していなかったんだけれど)。
仲間たちも、それぞれの道の中で
変化をしていっていた。
婚約をした仲間。
子供が生まれた仲間。
新しい仕事や活動に挑戦し始めた仲間。
当たり前の話なんだけれど、
それぞれの人が、それぞれの日々の暮らしの中で、
一生懸命、自分にできることを頑張っている。
人は、一日たりとも
「完全に止まっている」という事はない。
常に判断と行動を繰り返し、
自分の人生を刻み続けている。
そんなことを、あらためて
感じさせてもらっていた。
そんな中、披露宴は進んで行き、
「新郎新婦のあゆみ」
みたいな映像が流れてきた。
新郎、新婦それぞれの
生まれた時から現在まで。
そして出会ってからの軌跡を
短い映像で流すものだ。
映像自体は、他の結婚するカップルも
最近はよく作るものだから、
それ自体が、とりたてて珍しいものではない。
でも、
その映像を見ながら、
とても感じたことがあったんだよね。
それは、
「俺、アイツの何も知らなかった」
っていうこと。
同じ仕事場で、毎日のように顔を合わせていた男。
たくさんの話をしたし、
単に“仕事を一緒にしている”以上の仲間意識があった。
そんな中で、
「この男は、こういう人なんだな」
と、私の中で、その仲間の「像」が出来ていた。
しかし。
優しい音楽に合わせてスクリーンに映る彼の写真は、
私がまったく知ることのない、彼のリアルな足跡だった。
誕生した時。
小学生の時。
学生時代の活動。
社会人になるまではもちろん、
一緒に仕事をするようになってからも、
彼が過ごしてきたリアルな時間を、
ほとんど何も知らなかったんだなぁ、
と、あらためて思ったんだよね。
もちろん、どんな人でも、
すべてを知ることはできないし、知らなくてもいいとも思う。
ただ、私は、彼の人生のほんの一部分を共有しているだけで
「この男は、こういう人なんだろう」
と、勝手にイメージしちゃってたんだよね。
たぶん、
彼の数十年の人生のうちの数年。
その中で過ごした、たかだか数千時間で
イメージを作っていたんだなぁ、
と、あらためて感じたんだよね。
数千時間というと長いと感じるけれど、
彼の人生全体からすれば、
たかだか1%程度の時間を共有していたにすぎない。
しかも、その時に「全く同じ景色」を
見ていたわけでもない。
それなのに、なんとなく「わかっている」
つもりになっていたんだなぁ。
なんて思ったんだよね。
(もちろん、彼に抱いているイメージは
とても良いイメージなんだけれど、
ここで伝えたいのは、イメージの善し悪しじゃない)
そして。
当たり前のことなんだけれど、
今回の披露宴で久しぶりに会った他の仲間たちのことも。
それ以外で出会っている、たくさんの友達も。
仕事で付き合う人も。
そして、家族も。
ほとんどの人とは、その人の人生の
1%にも満たない時間の共有で、
「この人は、こういう人」
と、勝手にイメージを作ってしまっている。
もし、50年連れ添う夫婦が、
仮に毎日欠かさず8時間一緒にいたとしても、
80年の人生の中で共有している時間は、
2割をやっと越す程度だ。
実際は、もっと短い夫婦が多いに違いない。
どんなに分かっているつもりであっても、
その人の人生全体の中で共有している時間は、
思っている以上に短い。
それなのに
「あの人は、こういう人」
「あの人は、ああだから」
とイメージで決めつけるのは、
なんだか、とっても傲慢だよなー、
と、あらためて感じたんだよね。
だから。
どんなに分かろうとしても、
その人のすべては分かることはない。
それでも、
「分かろう」
「分かってもらおう」
と頑張ることに、美しさがあるんじゃないかなぁ。
と思った次第。
これから、私の仲間である男は、
一生をかけて、自分の奥様になった女性と
人生を刻んで行く。
新郎新婦は、
今まで、たくさんの時間を共有してきて、
これからも、たくさんの時間を共に過ごしていくだろう。
その中で、よりたくさんの
「分かろう」
「分かってもらおう」
がお互いにあると、素敵だろうなぁ、
なんて、自分のことを棚にあげて
想いを馳せちゃったりした6月のある日でした。
最高の仲間、Tさん。
TさんのパートナーとなってくれたAさん。
結婚おめでとう!
末永くお幸せに!
また一緒に遊ぼうね!
ではでは。