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「現実」を定義せよ!ってのがきた。

こんにちは。定義マニアです。
 
ってあいさつは置いておいて(笑)。
 
 
 
最近、私の「定義好き」は、
ごく狭いところで幅広く知られるようになり、
(変な日本語)
 
 
「コレを定義して!」
 
 
というメールが色々やってくるように
なってきています。
 
 
定義をすることによって、一体なにが起こるのか?
 
そもそも、この「定義シリーズ」は
読んでいる人が楽しめるのか?
 
私は一体、どこに向かおうとしているのか?
 
 
たくさんの謎を抱えつつ、
今回もやっていきたいと思います。
 
 
そこに、定義がある限りっ!!
 
(じっちゃんの名にかけて!みたいなノリ。笑)
 
 
 
 
さてさて。
 
 
今回来たお題は「現実」。
 
 
「現実」って、一体なんなんだろうね?
 
ここまでバーチャルリアリティが発達すると
現実と非現実の境界線って、かなり難しい気がする。
 
 
一番はじめに思いついた定義は
 
「五感で感じているホニャララ」
 
みたいにしようと思ったんだけれど、
かなりバーチャルとの境目がめんどうくさい。
 
(めんどうくさいって言うな、俺。笑)
 
 
 
そして、
 
「あーでもない。こーでもない」
 
と、頭をグルグルして思いついた定義が、こちら。
 
 
 
 
現実とは、
 
 
「自覚している主観と客観のズレがない、思い込み」
 
 
である。
 
 
 
つまり。
 
その本人が直面している「その時」と、
それを客観的に冷めた目で見ている「その時」の
認識に差がないのが「現実」なんじゃないかな?
 
と思う。
 
 
たとえば、ものすごくリアルなテレビゲームをしていて、
やっている時はその世界に没入している。
 
でも、心のどこかでは
 
「これは、ゲームの世界だよな」
 
と、客観的に理解はしている。
 
 
でも、現実世界は
 
主観的な「私はこういう人間で、こういう生活を送っている」
 
という認識と、
 
客観的な「私はこういう人間で、こういう生活を送っている」
 
という認識に、ズレがない。
 
 
もちろん、
 
「本当の私は、こんなはずじゃないのに!」
 
みたいな気持はあるかもしれないけれど、
 
「でもまぁ、今はこんな状態」
 
というのが、やっぱり分かってしまっている。
 
 
それが「現実」の正体だと思うんだよね。
 
 
 
 
そしてこの定義は、いろいろ怖い側面を持っている。
 
 
まず現実は「自覚している主観と客観」なので、
他人が思っているあなたとは、まったく無関係である。
 
 
たとえば、精神病の患者さんの中には、
 
「私は、イエスキリストである」
 
と、本気で思っている人がいるだろう。
 
 
それは他の人から見たら「はぁ?」という勘違いなのだが、
本人からしたら「自覚している主観と客観」にズレはないので
それが本人にとっての「現実」になる。
 
 
また、いわゆる
 
「なんか、現実感がない」
 
という感覚は、この「自覚している主観と客観」に
なんとなくズレを感じてしまっている時に襲われる感覚だろう。
 
 
世の中に命を感じない、とか、
まわりが空虚に見える、みたいな感覚は
 
「自覚している主観と客観」がズレてしまっているから、
そんな風に感じられてしまうのだと思う。
 
 
「自覚している主観と客観」がズレていなければ、
誰が何と言おうが、本人にとってはそれが「現実」となる。
 
 
ボケられてた老人にとっては、
私たちと違う「現実」が通常の状態だろうし、
 
もしゲームの世界と通常の世界がまったく同じように
認識されるようになったら、とんでもない事件を
「現実」で起こす人も現れたりする可能性もあるわけだ。
 
 
 
そこまで極端じゃなかったとしても、
私たち一人一人が考えている
 
「自分の現実」
 
というのは、100%「自覚している主観と客観」で
出来ている。
 
 
そして、おそろしく大切なことに、それはすべて
 
「思い込み」
 
である、というのも真実だ。
 
 
もしかしたら、
あなたが「自分の現実」だと思っているものは
本当は、まったく違うかもしれない。
 
 
ちょっとSFチックな話になるけれど、
 
あなたが「過去に現実に起こったこと」だと
思っていることの全ては、
 
誰かに埋め込まれた偽りの記憶で、
ほんの数分前まで、あなたはそこにいなかった
可能性だって、なくはない。
 
 
「絶対にそんなことありえない」
 
とは、誰にも言えない。
 
 
さらに言えば、もしかしたら、地球ってのも幻想で、
あなたと、あなたを管理する他の数人が
 
「あなたの現実」
 
をプロデュースしている可能性だって、
ゼロ%とは言い切れないわけ。でしょ?
 
 
それでも、 
 
「自覚している主観と客観のズレ」がなければ、
それを「現実」と認識することが出来る。
 
すべては「思い込み」ってわけ。
 
 
 
ちょっとシニカルな話になっちゃったけれど、
それだけ「現実」ってのは、思い込みの世界なんじゃないかな?
 
 
「私は、運動音痴だ」
 
「私は、センスがない」
 
「私は、平凡なサラリーマンだ」
 
「私は、お金があまりない」
 
「私は、モテない」
 
「私は、夢をかなえていない」
 
 
などなど、そんなのは
「自覚している主観と客観」というだけの話で、
これからなんて、どうなるかわからない。
 
 
どんな風に「現実」を認識し、思いこむか?
 
そこも、けっこう大事だよね?
 
 
 
。。。と、ここで終わっておけば
 
「希望のある自己啓発の話」なんだろうけれど、
 
そう簡単に「自覚している主観と客観」は
変えることはできにくい。
 
 
「私はお金持ちー!!」
 
と叫んでも、「自覚している主観と客観」までは
なかなか響かないだろうし、
 
「ありがとう」
 
と感謝を100回唱えても、本人の「主観と客観」に
ズレがあるうちは、「現実」まで降りてこない。
 
 
でも。
 
 
だから、「現実」を変えてゆくっていう道程は、
面白いんじゃないかな?なんて風にも思うんだよね。
 
 
「現実とは、
 自覚している主観と客観のズレのない、思い込みである」
 
 
さて。
 
 
だとするならば、
 
あなたは、どんな「現実」を生きる?
 
 
ではでは。
 

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