誰かの悪口を言ったりするのが
大好きな人って、いますやん?
個人的には、
人がどんな風に生きるのも
それぞれの選択だと思うし、
だからこそ、選択が違う人や、
自分が選択したいのにできない
生き方をしている人にイラッと来るのも分かる。
さらに言えば、
誰かに悪感情を抱くのも
考えちゃうのもいいんじゃね?とも思う。
変に自分の感情に蓋をし続けてたら
自分の生き方、選択にも
蓋をすることになっちゃうだろうからね。
ただ。
それを表に発信するのは
やめておいた方がいいんじゃない?と思う。
思うまでと、実行に移すのは
とんでもない差があると思う。
特に、誰か特定の人に対する攻撃は
何も生まないから。
、、、まぁ、かく言うワタシは、
「いわゆる、こういう人」
といったステレオタイプの人を
茶化したりはしているので、
その線引きもあいまいなものだが。
さて。
個人的には、
相手を攻撃するのは、浪費だと思っている。
浪費って、その場の感情で
場当たり的に自分を満たすためだけに
やるじゃない?
そこには、なんの知性も必要ない。
お金も、借りて浪費することも可能だ。
自分の(既存の、あるいは将来の)信用を使って
その場の感情を満たす。
あとには、何も残らない。
残るのは、空しさと、
さらに刺激を求めるようになる中毒症状だ。
な?相手への攻撃は浪費でしょ?
それに対して、
誰かの良いところにフォーカスを当てるのは
結果として投資になりうる。
その場での感情の満たされ感も
お互いにある。
ただ、そこには知性が必要だし、
相手との信用も必要になってくる。
知性も信用もない状態では、
どんな言葉も空回りするだろう。
自分の信用と知性を使って、
将来に種をまく。
即効性があるわけでもなく、
刺激はないかもしれない。
ただ、お金とは比べ物にならない
「資産」を形成していることになってゆく。
もちろん、
「資産になるから、この人を誉めておこう」
みたいな話なのではなく、あくまで結果論だ。
ただ、
浪費し続けて、信用を前借りし、
さらに刺激を求める人と、
着実に資産を積み重ね、
大きな信用を得てゆく人と、
5年後、10年後には
どんな差が生まれてゆくだろう?
人を攻撃するという浪費を重ねる人と、
人を大切にするという知性を築く人と。
どちらの人に、どんな人が近づき、
どちらが豊かに過ごせるようになるだろう?
言わずもがなじゃない?
まぁ、すべては理想論ではいかないかもしれない。
たまに、その場の感情で、
浪費をしている人は、その攻撃の刃を
コツコツとやっている人に向けたりもする。
そんな事をされた時には、
どうしても気になってしまうのも、わかる。
でもその攻撃は、
自分ができていないことに対する嫉妬だったり、
足を引っ張ることによる
自己正当化だったりするのだろうから。
そんな時、どうすればいいのか?
つらい。キツい。それは間違いない。
ただ、反応してしまったら
「浪費家」の思うつぼだ。
だから、スルーする。
謙虚になる、反撃する、
アプローチを変える、自分も誰かを攻撃する。
それら全部、必要ない。
全部、どんな形も採用することなく
スルー。ただただスルー。
そもそも、そんな人たちは数年後には
確実にあなたの視界からはいなくなる人だ。
そんな人たちに、目線をくれてやる必要もない。
そして、自分の大切な人を大切にすればいい。
100の肯定よりも、
1の否定が目に付く。
でも、その否定に知性は宿っているのか?
その否定は、信用を構築しているのか?
それとも自らの信用を破壊しているのか?
勝手に堕ちていく人の相手をする必要はない。
さてさて。
誰しも、うまくいかないことがある。
言われたくないことがある。
自覚していることもある。
そんな中、相手のそれに気づいて、
目を向け、指摘するのは知性ではない。
それを補ってあまりある
相手のよさに目を向けて、
そこを引き延ばせるのが知性だ。
もし、どうしても目に余って
言わなければいけない時は、
相手がきちんと受け止められるように
伝えることができるのが知性だ。
そして、どうしても相いれないと分かった時、
お互いに傷つかないように
フェイドアウトできるのが知性だ。
もちろん、すべての人間関係において
パーフェクトでできることはないだろう。
でも、自ら好んで「浪費」ばかりを
選ばなくても、生きていけるんじゃね?
とは思う。
自分にとって、
大切な人に、大切な時間を使う。
自分にとって、
大切じゃない人に時間を使わない。
冷たく聞こえるかもだけれど、
それが多くの人の大切を守り、奪わない
事に繋がるんじゃないかな?と思う。
平和に生きていきたいものですわ。
ではでは。