あなたにも私にも、いろんな
「やりたい」
「試してみたい」
「経験してみたい」
ということって、あるよね?
それは、
「お金持ちになりたい」だったり、
「もっと健康になりたい」だったり、
「素敵なパートナーに巡り合いたい」だったり、
「社会貢献をしたい」だったり、色々だ。
ただ、そんな欲望の中には、
他の人には言えない、社会的には歓迎されないような
欲望もあるかもしれない。
「物欲にまみれてみたい」
「ジャンクフードを食べまくりたい」
くらいならまだしも、
「ハーレムをつくりたい」
「犯罪的な何かをやってみたい」
「若いイケメンを飼ってみたい」
「あれを破壊してしまいたい」
「あいつなんか、この世からいなくなって
しまえばいいのに…」
などなど。
先日、非常に真面目にものごとを考える友人から
「こんなダークな欲望が、自分の中にあることが
わかってしまった。
この欲望に、どう向き合えばいいんだろう?」
という、質問を受けたんだよね。
私自身は、彼の告白を聞いて
「すごいヤツだなぁ」
と思った。
なぜならば、まず自分の中に
「ダークな感情、欲望がある」
と、認めること自体が、相当大変なハードルだ。
そしてさらに、それを
「自分には、こんなダークな欲望がある」
と、他の人に告白できるというのは、
本当に真剣に自分自身に向き合っている
なによりの証拠だと思うんだよね。
なので、その彼の告白を真剣に受け止め、
考えてみた。
(何より、ダークな欲望との付き合い方は
私自身の課題でもあるからだ)
で、
その時に私が彼に答えたのは、
こんなものになった。
「まず、ダークな欲望を自分の中に
発見してしまったら、何の判断、裁きもせず、
“ああ、こんな欲望があるんだな”
と、存在を認めると、いいかもしれない」
ダークな欲望を発見したり、
ダークな欲望が湧きあがった時に、
「こんなこと、考えちゃいけない!」
「こんなもの、見なかったことにしよう」
とするのが、個人的には最もやってはいけないことだと
思うんだよね。
もしダークな欲望を、考えることすら抑圧したり、
無視したりすると、
もともとダークだった欲望が、さらにねじ曲がり、
心の奥底でよどみ、ヘドロのようにたまり、
もっと悪質な何かに変容してしまう気がする。
なので、抑圧せず、無視もせず、
「ただ、ある」
ということを認めることが、
最初の一歩だと思う。
すると、少なくともそのダークな欲望が
すねたり、ひねくれたりすることは避けられる。
さらに、一度「ただ、ある」と認めると、
自分の中に客観視している側面が生まれて、
気持ちに余裕ができると思うんだよね。
で、その次に。
さらに自分から一度切り離して考えてみると
いいかな?と思って、こんな提案をしてみた。
「今考えているダークな欲望は、
人類の歴史上、どこでも、いつの時代も
タブーだったのかを考えてみるのもいいかも」
現在の法律、社会、倫理・道徳観で
許されないことは、たくさんある。
でも、そのほとんどは、
今現在住んでいる国が変わったり、
100年程度過去に行ったり、あるいは未来に行ったりしたら、
全然違う捉えられ方をされている可能性は充分ある。
ハーレムを作ることが許されている国は? ある。
犯罪的な何かをやって賞賛されるコミュニティは? ある。
若いイケメンを飼って、幸せに過ごしている人は? いる。
今ここが戦場だとしたら?
復讐が許されていた時代は?
様々なダークな欲望のほとんどは、
その時代時代で移り変わり、その時の権力者の思惑で
かなり勝手に変更される。
もちろん、だからといって、私たちが抱く
ダークな欲望を、そのまま実行すると社会的な制裁を受けるし、
もっと崇高な「何か」は汚れるのかもしれない。
だから、「じゃあ、やってみれば?」ということを
推奨しているわけじゃない。
そうではなくて、自分が抱いている
ダークな欲望を客観視して、
そんな欲望も抱いてしまう自分を愛する力に変えてみたら?
という提案。
たぶんなんだけれど、
ダークな欲望も、持っていたほうが良いと思うんだよね。
その「ダーク」というのは、今説明したとおり
その時、その国によって相当変わるものでもあるし、
その、いわゆる「ダーク」な欲望を心に秘めて、
美しい何かを推進させる力にもできるとも思うし。
色んな事を考える自由を所有していて、
それを実行するかどうかを選択肢としては持っている、
っていう風に「大いなる何者か」に人間は創られている。
そんな気も、したりするんだよね。
ダークな欲望を持っているあなたが大好きです。
なぜなら、同じような欲望を抱く「同志」として、
分かりあえることが出来ると思うから。
ではでは。