よく、ヒーリング系の記事を読んだりしていると、
「子供の頃の天真爛漫さを持ちましょう」
とか、
「思いっきり感情を解放して、
子供のようにはしゃぎましょう」
みたいなススメがあるじゃない?
それはとても大切な事だと思うし、
私自身、「子供の心」を取り戻したおかげで
助けられた事もたくさんあると思う。
その上で、忘れちゃいけないと思っているのが、
「大人の自分」
というのも、しっかり愉しむということ。
ものごとの分別を持ち、
ケースバイケースで言いたい事を言わず、
広い意味でビジネス的な思考も持ち、
相手を大きな愛で包み込む。
肉体以外にも、知的にも精神的にも
成長しているからこそ愉しめることがある。
子供の良さも、もちろんあるけれど、
自分が大人である、という事を
肉体的にも、知的にも、精神的にも受容した方が
良いことあるように思う。
それは、
「文明が人を不幸した!
なにもなかった昔に戻りましょう!」
と言われて「なるほど」と思いつつも、
現代の便利さに感謝するのと同じ感じかな?
また、
「異性の気持ちを理解しましょう」
というのが行き過ぎて、
自分本来の性別を忘れて、異性と同化してしまうのが
ちょっと違うのと同じような事だと思う。
(ここで言う「本来の性別」とは、肉体的な事ではない。
性同一性障害ならば、本来の性別と肉体的性別は違う)
いつでも子供みたいに無邪気になれる。
でも、いつでも大人としての人格やマナーをもって
人に接することが出来る。
これが、人としての「幅」なんじゃないかな?
なんて思う。
そして、人間を表す言葉で、似た言葉は他にもある。
「厚みのある人間性」
とか、
「(志の)高い人間」
といった言葉たち。
厚みのある人間、というと、ピンとひらめくのは、
なにか重厚感を持っているような
北大路欣也的な人物かもしれない。(え?違う?)
でも、本当の意味で「厚み」がある人間というのは
薄~いところも、厚みのあるところも
自由自在に駆け巡れる人なんじゃないかな?
ものすごく軽薄なことをしゃべったかと思うと、
その一言が、そのひとつの行動が
他の人の一生を左右してしまうような影響力を持つ。
そんな人が「厚み」のある人なんじゃないかな?
なんて思う。
「高さ」にしても、そうだろう。
キレイ事ばかりを言って、
夢見心地になっているだけの人ではなく、
泥にまみれて這いつくばって、
アスファルトに降り注ぐ雨の中
絶望で立ちあがれなかったような体験を持つ人が
「高み」
を目指すことに、少なくとも私は感動を覚える。
他にも、
様々なジャンルの仕事を体験していたり、
様々な種類の人と交友関係があったり、
多くの場所、文化に触れる事であったり。
そしてそれを
「単なる経験」「単なる知人」「単なる旅行」
で終わらせているのではなく、自分の血肉としている人。
そんな人が、人としての「幅」「厚さ」「高さ」を
持ち得るのかもしれないなぁ。なんて思う次第。
別にどれが「幅」で、どれが「厚さ」で、
どれが「高さ」に該当するかは分からないし、
そんなことはどうでもいい。
でも、
ひとつの事(たとえば男性性と女性性のバランス)
だけでは、「幅」「厚さ」「高さ」の全てを
持つことは出来ないんじゃないかな?なんて感じる。
一次元的な要素じゃなくて、
多面的に、自由自在に駆け巡る。
時には子供になり、大人になり。
男性的になり、女性的になり。
軽薄になり、重厚になり。
心貧しくあり、心豊かにあり。
バカになり、賢者になり。
感情的になり、理性的になり。
そんなこと全てを通じて、多元的な、立体感のある
「にんげん」
になれるような、そんな気がする今日この頃。
そう言った意味では、
私はまだまだ、どちらも中途半端だなぁ、と思う。
いわゆる
「狭く、薄く、低い」境地も
「広く、厚く、高い」境地も、
どちらも、これからもまだまだ色々と
体験していきたいな、なんて思いまする。
「おいおいイグさん。
これ以上狭く、薄く、低くなられると、
周りにいる人が迷惑だよ!?」
という声は放置して、
これからも進んで行きたいと思います(笑)
ではでは。