先日、久しぶりに「やる側」ではなく、
参加者としてセミナーに出てきた。
それは写真撮影についてのセミナーで、
「桜をキレイに撮れるようにしましょう」
というのが、メインのテーマだったのね。
そこでの学びはたくさんあって、
写真撮影のテクニックという意味でも
収穫は大きかった。
その上で、個人的に「なるほど!」と
深く気がつかされたことがあったので、
今回は、それをシェアしたいと思う。
さてさて。
今回参加したセミナーで、
もっとも感銘を受けたのが、講師の方の
このひと言。
「桜は、ピンクじゃありません」。
この言葉を最初に聞いた時、
「はい?なんですって?」
と耳の穴をかっぽじってみたんだけれど、
その後に出て来たスライドを見て、実感した。
たしかに、ピンクじゃない。
どちらかというと、白に限りなく近い。
あなたにも実際に桜の写真
(特に花がアップになっている写真)を
見てもらえると分かるんだけれど、
本当にピンクじゃないんだよね。
なに?
「ほんのり、桜色」
って、何だったの?
お酒呑んで「桜色」になるって、色っぽくないやん!
顔面、白くなってますやん!
お医者さーーーーんっ!!!!
ってことになってしまう。
でも、実際に固定観念を外して
あらためて見てみると、
「今まで、なんとなく抱いていた桜のイメージ」
ってのが、実は事実とは違っていたんだな、
なんて思った次第。
(遠くから見ると、いわゆる「桜色」という
ほのがかったピンクなのは間違いないし
それは講師の方も言っていた)
でね。
実はこういった固定観念って、けっこう
他にも色々あるんじゃないかな?なんて思った。
ある一定の距離から見ると、たしかにそう見えるんだけれど、
違う角度から見ると、全然違うものになる、みたいな事やモノ。
桜はピンク色だ。
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば。
海は青い。
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば。
名画は美しい。
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば。
男性は、ガサツだ。
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば。
あの人は、イヤな人だ。
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば。
その他、政治、宗教、国家間の争い、
何らかの好き嫌い、生きている意味。。。
全てにおいて、いつのまにか
「ある一定の条件で、ある一定の距離から見たもの」
を、そのものが持っているすべてだと思ってしまっていることが
あるような気がするんだけれど、どうだろう?
ある一定の条件で、ある一定の距離から見れば
確かにその通り。
ただ、見る側も、評価される対象も、
いつでも、いつまでもまったく一定なんてことは、ない。
それなのに、強く持ってしまった固定観念で
「ああ、アレはこうだから」
と決めつけてしまうのは、実はかなり危険なことでも
あるんじゃないかな?なんて思う。
モノにしても、人にしても、ね。
別に、「いつでもひねくれて物事を見ろ!」
なんて言うつもりもない。
ただ、
もしあなたにとって、何か不快なことがあるのだとしたら、
その「一定の条件と距離」を変えてみると
別の見え方があるのかもしれないし、
また、何か問題があった時にも、
固定観念を取っ払ってみて、それを見る条件や
「距離」を変えてみると、突破口が開けるかもしれない。
そういう意味で言えば、
この世の中で日々生まれている新しい発見はすべて、
「今までとは違う条件、違う距離で“それ”を見た」
という結果なんだろうな、と思う。
どうやら、自分が思っている数十倍、数百倍も
いろいろな固定観念、思い込みで生きているみたいだし、
世界には、まだまだ見落としが果てしなく転がっている。
一本の木を、いつも同じ場所から、同じ条件で見ていたら
森という全体像を見失うかもしれない。
また、それと同時に、花びら一枚の真実にも
一生、気がつかないことだってあるだろう。
視点、見る条件、思い込み。
それらを自由自在に変化させることができたら、
世界はもっと大冒険に満ちているのかもしれないね。
さてさて。
「桜は、ピンクじゃありません」
あなたにとって、いま目の前にある「木」。
たまには、離れて見たり、ぐぐっと近づいて見てみても、
面白いかもしれないよね。
ではでは。