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物語とは?

超絶久しぶりの、
「言葉をイグゼロ流に定義してみよう」シリーズ。
 
もはや、そんなシリーズがあったことすら
記憶の銀河系に吹っ飛びそうな勢いだったけれど、
今回は、
 
「物語」
 
というのは、どんなものなのかを
ワタクシなりに定義してみたいと思います。
 
 
というのも、
最近、おかげさまでライティングの依頼が増え、
 
クライアント様の言いたいことを、
ご本人以上に言語化して伝えるべく頑張っていて、
その甲斐もあり、けっこう喜んでいただいている。
 
 
そして、クライアント様が言ってくださるのが
 
「イグさんに頼むと、ただの文章が
 物語になる」
 
という言葉。
 
 
いやぁ、ありがたいことです。
そういうお褒めの言葉は、もっと言ってください(笑)
 
 
ただ、有頂天になってばかりいると、
 
「信じるものは、すくわれる。足元を」
 
という結果が、手ぐすね引いて待ち受けるハメになるので、
再度、しっかりとしていこうと思う次第。
 
 
 
で、
 
クライアント様が言ってくださる
 
「物語」
 
「ストーリー性」
 
という長所を伸ばすためには、そもそも
 
 
「物語とは、何か?」
 
 
という定義づけをしっかりしておかないとダメだろう。
というのが、私の思考回路。
 
 
我ながらメンドクサイと思うが、
そういう思考回路なんだから、仕方ない。
 
 
 
定義づけがしっかりしていないで
あいまいにしたままだと、それを磨くことはできにくいと思う。
 
 
たとえば、お金が欲しいのに、
 
「お金」
 
の定義があいまいなままだと、
やっぱりお金は手に入ってきにくいと思うし、
 
成功したいのに、自分の中で
「成功」の定義があいまいなままだと、
誰かが勝手に決めつけた「成功」に
いつのまにか流されて、
 
「あれ?私が欲しかったのは、
 こんなものじゃなかったのに?」
 
と、あとあと嘆くことにもなりかねない。
 
 
なので、ここで改めてもう一度、
 
「物語とは?」
 
ということを考えてみたいと思った、
というわけだ。
 
 
 
 
さて。
 
 
物語の定義を考え始めたとき、
まず思ったのが、
 
「はて?物語の反対に位置するものって
 いったい何だろう?」
 
ということ。
 
 
何でもそうかもしれないけれど、
対極にあるものを意識できると、目的の対象を
よりクッキリと理解できるようになるように思う。
 
 
たとえば、
 
「日本」を知りたかったら、
「海外」を意識すると、よりクリアに見えることもある。
 
「男性」を知りたかったら
「女性」を意識し、
 
「生きる」を知りたかったら、
「死」を見つめてみる。
 
そうすることが、対象を深く知るための
最もシンプルかつ本質的な掘り下げ方の一つのように思う。
 
 
で、
 
もちろん、いろんな対極があるんだろうなー、とも
思うのだけれど、
 
現時点の私個人としては「物語」の対極にある言葉は、
 
「記録」
 
のように感じる。
 
 
 
文章にしても、画像、イラスト、音声、映像にしても、
一切、物語性をそぎ落とした存在というのは、
 
「記録」
 
なんじゃないかなー、なんて思う。
 
 
そこを前提にするとしたら、では、
「記録」と「物語」の差は、一体どこにあるのだろう?
 
 
 
記録の筆記と、物語。
 
記録の音声と、物語を感じるドラマ音声。
 
記録映像と、映画。
 
 
 
そこを分ける「一線」は、どのラインなのかなぁ、
なんて考える。
 
 
物語にあって、記録にはないもの。
 
あるいは、記録にはあって、ものがたりにはないもの。
 
 
そんなことをウニウニ考えた先に行きついたのが、
今回の主題。
 
 
もちろん、いろいろな考え方があると思うのだけれど、
個人的には、物語にあって、記録にないのは、
 
「感情」
 
であると思う。
 
 
 
人の感情。気持ち。
 
伝えたい思い。
 
 
それが注ぎ込まれると、
文章も画像も音声も映像も

「物語」
 
として息づき始めるんじゃないかな?
なんて思う。
 
 
さらに言うと、
 
仮に、文章を書いた人や映像を録った人が
なんの感情も注ぎ込まずに作ったものであっても、
 
単なる日常の風景だったとしても、
 
受け取り手が、その文章なり映像なり風景に
自分の感情を注ぎ込めたのだとしたら、
それは突然
 
「物語」
 
となってゆくのじゃないかな?
 
なんて考える。
 
 

だから、物語はいつも主観的な見方が含まれるし、
そうじゃないと、物語にならない。
 
同じものを見ていたとしても、
そこに感じるのは、違う物語であるのが、
むしろ自然なことなのだろう、とも思う。
 
感情を吹き込むために、伝えたいメッセージに
「無駄」なものは、なかったことにしてもいいし、
許される範囲であれば、付加してもいい。
 
より分かりやすくするために、
より伝えたい感情にクローズアップするために
「記録」を切り取り、付加し、順番を変えることもアリだろう。
 
 
 
「感情という命」
 
を吹き込んだとき、それは物語になる。
 
少なくとも、命を吹き込んだ者にとっては。
 
 
、、、っと。
 
 
つらつらダラダラと書いたけれど、
現時点の私の「物語とは?」は、
 
 
「物語とは、時間や空間に命を吹き込むことである」
 
 
となるかな?
 
 
感情という命を吹き込むのは、
物語の語り手、作り手かもしれないし、
受け取る一人ひとりかもしれない。
 
 
いずれにしても、
 
「単なる時間の経過」
 
「単なる1シチュエーション」
 
に、人間の感情、心、命が吹き込まれると
それは物語になる。
 
 
そして、その物語に共感した命が、
物語を語り継いでゆき、
 
より多くの命に響く物語は、
語り手がこの世からいなくなったとしても、
吹き込まれた命の炎は、ずっと消えないでいるんだろうね。
 
 
今現在の私が、どれだけの命を吹き込めているかは
分からないけれど、
言葉を紡ぐものの一人として、
これからも大切に命を吹き込んでいきたいと思います。
 
 
私は文章によって命を吹き込むだろうけれど、
手段はいろいろあっていいと思う。
 
この世の中に、いろんなストーリーテラーがいたら、
より面白い毎日になるんじゃないかな?
なんて思う。
 
 
自分の感情を吹き込むことを恐れずに、
豊かに過ごしていきたいと思います。
 
 
ではでは。

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