これ以上ないほど私的な事ですが、
ちょっと前の先日、さりげなく誕生日をむかえました。
一部、全然さりげなくない形で
「おめでとうと言ってくれー!」
というワガママなメッセージに付き合ってもらった人も
いましたが、本当にありがとう!
そんな誕生日を迎えて、しみじみと
「ああ、幸せだな」
なんて思っておりました。
そして、幸せをかみしめた後に
ムクムクと湧きあがってきたのは、
「さて、じゃあ“幸せ”を定義してみようか」
という「定義マニア」の側面だった。
もう、この自分の性格、ホントどうしましょうね?(笑)
たぶん「定義マニアシリーズ」の中でも
かなり賛否が分かれるであろうテーマ、「幸せ」。
まぁ、まだ私も「幸せとは?」を語れるほど
人格が磨かれていないだろうし、
あくまで現時点の定義なので、よかったらお付き合いください。
さて。幸せとは?
いろいろと考えてみたんだけれど、
いま思いつく定義は、結果としてかなりシンプルになった。
今、私が考え、定義する幸せとは、
「期待以上の状態」
という定義。
ちょっと説明させてね。
たぶん、私たちは毎日毎日
意識しているか無意識かは別として、
様々なことを期待している。
それは、
「今よりお金持ちになりたいな」
とか、
「あと3kg痩せられたらな」
とか、
「素敵なパートナーと良い関係になれたらな」
みたいな期待もあるだろうし、
もっと身近な
「昼はラーメンにでもするか」
とか、
「普通に仕事して、家に帰る」
とか、
「いつも顔を合わせる人と話せる」
みたいに、特に「期待」という形では意識しない、
ごく日常的なことも含まれる。
今のあなたの日常は、
あなたの「無意識の期待」によって保たれている、
とも言えるだろうからね。
意識、無意識を問わずに、
「こうなるといいな」
「こうなるのは当然だろう」
と、私たちは「期待」を持ちながら
毎日生活をしているわけだ。
その「期待」が「それ以上」になった状態が、
いわゆる「幸せ」なんじゃないかな?
と思うんだけれど、いかがでしょう?
「期待以上」。
これは言葉どおりの意味なので
「期待どおり」も、「以上」には含まれる。
すべてが「期待どおりの状態」っていうのも、
それはそれで、かなり幸せだよね?
じんわり味わえる幸せというか、
「当たり前に、そばにいてくれる幸せ」
みたいな感じ?
いずれにしても、
「期待どおり」あるいは「期待を超えた」状態である時、
人は心から、なんの頭も使わずに
「ああー!シアワセ!」
と感じられるように思う。
逆に言うと、たとえ他の人から見て
「もう、アナタ何もいらないじゃない!?」
と思えるほど恵まれた状態にある人がいても、
その人が幸せであるかどうかは、
その人にしか分からない。
なぜなら。
どんなに健康であっても、
どんなに経済的に恵まれた状態であっても、
多くの素晴らしい友人やパートナーや家族に囲まれていても、
どんなに自由な時間を持ち、夢を実現していたとしても、
その人自身が持っている「期待」を下回っていたら、
それでは、なかなか「幸せ」を感じることが
できないんじゃないかな?なんて思う。
「いいえ、私は期待を下回っていても、
心から幸せを感じられますわよ」
という人も、中にはいるかもしれないけれど、
それは「感謝」の力を使って、
期待値を調整した時のように思えるけれど、
それは私がヒネクレているからか?(笑)
ってなわけで。
現時点で考える幸せの定義からすると、
どうやら幸せであるためには、
「期待」というものを、より深く理解すれば
いいのかもしれないぞ、なんて思った。
自分が幸せでありたいのであれば、
自分の中で育まれている「期待」を見つめ、
意識し、理解し、無理のない範囲でコントロールする。
それができれば、今より幸せであれそうだ。
さらに、
誰か他の人を幸せにしたいのであれば、
その人その人に合わせた形で、
「その人は、何を期待しているだろう?」
ということを深く理解、共感できれば、
その人に幸せを届けられる可能性は高まるように思う。
意識、無意識、その中間。
自分の中の、いろんな「期待」と向き合って、
自分の期待以上の状態を迎えられる準備と努力をし、
手放す期待は、あっさりと手放す。
そして、あとは天にゆだねる。
そんな人間であれたら、
かなりの「幸せ者」なのは、間違いないね。
道は長いけど、
そんな道程を愉しみたいと思いますわ。
ではでは。