「なんか、色々と執着してるわー」
という個人的な思いと、
大切な友人からのアドバイスが重なったため、
ここ最近、大幅にモノを捨てている。
断捨離の提唱者である
やましたひでこさんと懇意にさせていただいているのに
かなりサボっていたことをここに告白します。笑。
(なので「断捨離してます」とは、とても書けない)
本は200冊以上処分し、
使わなくなったパソコンや周辺機器も処分。
本棚や押し入れは、けっこうガランと空いた。
あまり根を詰めてやると疲れてしまうだろうと、
1日だいたい15分くらいをめどに。
コツコツと「捨てグセ」「かたづけグセ」を
つけることを意識して、
「今の私に必要なのか?」
「今の私に適しているのか?」
「今の私に快をもたらしているのか?」
と自問自答してやっております。
そんなモノ捨てをやっている中で
個人的にとても大きかったのが、
「誰かから記念でいただいたモノ」
と、
「誰かにあげようとしていたモノ」
を捨てたこと。
いやぁ。
記念でいただいたモノって、
やっぱり捨てるのが申し訳ない気持ちになるじゃない?
でも、相手の温かい気持ちは
「モノ」だけに宿っているわけでもない。
また、「モノ」に宿っている気持ちは、
そこでストップしてしまっているとも言える。
相手も(たとえこの世から去っていても)
循環変化しているし、私も新陳代謝を繰り返しているはず。
だから、モノをいただいた時の思いは大切に感謝しつつ、
モノ自体は手放すことにした。
さらに。
「これ、いつかあの人にあげよう」
「これ、たぶんあの人が欲しいかもな」
なんて思って取っておいたモノも、
ザザッと捨てることにした。
取っておいても、なかなかお目当ての人に会わないし、
会った時には、その人は変わっているだろう。
そもそも、久しぶりに会った時に
「ああ、これ、いつか会った時に
プレゼントしようと思ってたんだ」
なんて渡されても、時と場合によっては
キモいだけだ。笑。
なので、そういった類のモノを
ズバッと、スカッと捨ててしまった。
すると。
なんか、頭を押さえつけていた
なんらかの観念が
パカッ!
スコンッ!
と、抜けていく体感があったんだよね。
(一応、氣功などもやっているので
その辺の感覚はありんす)
そして、なんか執着していたものが
遠い過去のように感じられて。
不思議な感覚を味わった。
今もまだ「モノ捨て」は継続しているのだけれど、
その「記念品捨て」にめどが立ったあとしばらくは
自分のエネルギー状態や体調が、かなり不安定だった。
髪をバッサリと切ったような。
詰め物をコロッと取ったような。
クララが車椅子を手放したような。
そんな感覚。
でもそれから数日経った今は、
「ない」ことの方が自然になっている不思議。
あのままの浮遊感、ロス感のままだったら、
「生への執着」も希薄になっていたかもとすら思える。
だから、そんな時には身体性に立ち還り、
体を動かすことはとっても大事だなぁ、なんてことも思っていた。
さてさて。
今回は、自分の雑記。
「今さら??」
「遅くね?」
と思われるかもしれないけれど、ご容赦を。
モノに思いは宿る。
それが、直接的に思い出と
密接に関わるものであればもちろん、
そうでなかったとしても、
「執着する気持ちを呼び起こす呪い」
「思いを過去に固定する五寸釘」
「自分を過去へと引きずり戻す足かせ」
としての作用は、
モノを取っておくだけで深く沈澱するようだ。
もし、なんらかの思いに囚われている方がいらしたら、
関係ないと思えるようなモノでも、捨ててみるのも
ひとつの手かもしれませんよん。
、、、えーと。。
。。。たぶん、この記事を読んでいる方は
断捨離についてのエキスパートの方も多いので、
「今さらでホントスミマセン」
「継続していきますので、
これからも教えてくださいませ」
と謝っておきたいと思います。
ではでは。