「イグさん、やさしい、ってどういうことでしょう?」
そんなメッセージをもらった。
世の中は、人のやさしさでできている。
もちろん「やさしくない」こともたくさんあるけれど
人類がここまで生き抜いて来られているのは、
きっとやさしさが他の何よりも勝っていたから。
やさしさや助け合いがあったからこそ。
そしてそのバトンを受け取り、渡してきたからこそ、
牙を持ち、力も強い動物をしのいで来られたんじゃないかな?
なんて思う。
では、その「やさしさ」の正体とは?
「やさしさ」を定義せよ!
って、ぜんぜん易しくないな。笑。
でも、そんな中で考えてみた私の定義。
やさしさとは、
「存在に感謝し、慈しむ行為」
としたい。
その対象が人であれ、動植物であれ、モノであれ、
その
「存在」
を認めるところから、すべては始まる。
その存在自体を、ひとつの存在として認め、
自分と出会ったことそのものに感謝ができる心のありよう。
それも、
「存在を認めよう」
「感謝しよう」
という意識のフィルターを通さずに、
心から湧き上がる思い。
そのあふれ出る感謝を、
慈しみという何らかのかたちとして顕わす行為が、
やさしさなんじゃないかな?
と思う。
その「行為」は、具体的な行動かもしれないし、
言葉がけ かもしれない。
あるいは、もっと抽象的な笑顔かもしれないし、
祈りのような形かもしれない。
いずれにしても、
存在に対する感謝、慈しみという思いがあって
はじめて「やさしさ」になるんじゃないかな?
同じ行為や言葉だったとしても、
相手を存在として認めていない場合は、
やさしさはなくなるだろう。
一個の、確固たる存在として認める。
それが人であれ、動植物であれ、モノであれ。
「あなた」として認める。
そして、自分の慈しみの思いを
なにかの行為として注ぐ。
それが「やさしさ」だと定義したい。
「いやイグさん、
存在を認める、って、何にでも認めてますよ?」
ホント?
満員電車に乗っている時、
その一人ひとりに対して「あなた」を認識している?
数百人、数千人いるお客さまの一人ひとりを、
本当に「あなた」と認めている?
テレビやネットを見ている時、
そのすべてに「あなた」を認めている?
動物すべてに「あなた」を認めている?
持っているものすべてに「あなた」を認めている?
少なくとも、私はできていない。
だから、自分がやさしくない時もあるなー、と思っている。
そして、やさしくない時もあっていいし、
やさしくない対象があるからこそ、
「やさしい」も同時に存在できるとも思っている。
(↑ 理屈っぽくてスミマセン)
さて、その上で。
一番忘れてはいけないのは、
「やさしさ」は、コミュニケーションのひとつだということ。
コミュニケーションということは、
双方があって、はじめて成り立つ。
片方だけで完成はしないのだ。
コミュニケーションは、相手が起こした反応がすべてだ。
こちらは、やさしさのつもりでやっても、
相手が怒ったのならば、それは「怒れ」と言ったのと同じ。
やさしさの配慮のつもりでも、相手が受け取らなかったら
それは何でもないことだったり
迷惑なことだったりするわけだ。
逆に言えば。
こちらが、やさしさを意図していたわけじゃ
なかったとしても、相手が
「やさしいな」
「やさしくしてくれて、ありがとう」
と感じたのであれば、それはきっと
「やさしさ」なんじゃないかな?なんて思う。
そもそも、
本当にやさしい人は、自分のことを
「私はやさしい」なんて思っていない。
存在に感謝し、慈しみ、何からの行為をするのは
その人にとっては「普通」のことだから。
「わたしったら、本当にやさしいわー(ドヤァァァ)」
なんて人は、たぶんきっとゼッタイやさしくない。笑。
ってなわけで。
やさしさとは、存在に感謝し、慈しむ行為。
そしてやさしさはコミュニケーションなので
相手の受け取り方がすべてだ。
相手の心に寄り添い、折り合わせ、
無から有をつくり出す心のありようが
やさしさを世にもたらすんじゃないかな?
いやぁ~、
こんなことを丁寧に定義するワタシったら、
本当にやさしいわドヤァァ。
、、、スミマセン、調子に乗りました。
ではでは。