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「ねぎらう」とは?

ちまたでは、
 
「感謝しよう」
 
「ありがとうの気持ちを大切に」
 
みたいなメッセージがあふれているんだけれど、
ヒネクレ者の私としては、
 
「みんな、本当に感謝してるんやろか?」
 
「それなら、もっと世の中、平和なんとちゃうん?」
 
「そういう私ったら、一体どうなのよ??」
 
と思ってしまったりもする。
 
 
まぁ、言葉に表さないよりは、たとえ表面的でも
「ありがとう」を言った方がいいと思うし、
それが人間関係の潤滑油にもなったりするだろう。
 
 
ただ、
 
「人間関係の潤滑油目的」
 
「自分へのメリットを前提としての
 取引としての感謝」
 
だけだと、心のゴビ砂漠化が
深刻な事態を迎えるなー、なんて思う。
 
 
(ちなみに、パワースポット巡りとか、
 神社に行ってお願い事をするとかいうのも、
 「クレクレ」精神だけから行くと、なんか違う気がする)
 
 
「ありがとうと言っておけば、丸く収まる」
 
「 ワタシ ハ カンシャ シテイマス 。 ピピピ 」
 
みたいなのは、相手もなんとなく感じ取って
エセ新興宗教的、人工セルロイド的な違和感を感じたりする。
 
 
 
そこで、
 
「じゃあ、どんなんだったら、
 自然と感謝が湧き上がるんかいな」
 
というのを、
 
「ねぎらう」
 
という側面から考えてみたいと思う。
 
 
 
さて。
 
 
「ねぎらう」。
 
漢字で書くと「労う」。
 
 
「ろうをねぎらう」を漢字で書くと
 
「労を労う」
 
って、どんだけ労労してるんだよ!
 
 
で、
 
この「労」の字の由来を調べてみると、
上部の「ツ」と「ワ」の冠的な部分は、
「たいまつ」を表し、
 
その下の「力」は、それを支える腕を
表しているそうな。
 
 
たいまつ掲げて、ヒャッハー!、、、ああ、しんど。。。
 
あんなにたいまつ持ち上げて、、、お疲れさんです。
 
 
というのが「労」の由来ってわけだね。
 
 
 
ここで肝心なのは、
 
 
「たいまつ掲げて、ヒャッハー!、、、ああ、しんど。。。」
 
 
っていうのはともかく、
 
 
「あんなにたいまつ持ち上げて、、、お疲れさんです。」
 
 
という方。
 
 
前者は「労働」とか「勤労」とか「過労」で、
実際に本人が「労」を受け持っている状態。
 
 
それに対して後者は、
「労」を受け持ってくれている人に寄り添って、
まさに「ねぎらって」いる状態だよね。
 
 
ここには、他の動物には(おそらく)ないであろう。
「想像力」が必須となってくる。
 
 
「あれって、大変だろうな」
 
「こんなことを実現するには、人知れぬ苦労が
 たくさんあっただろうな」
 
 
と、見えていることや、その場では見えていないことに
思いを馳せられる想像力があるからこそ、
 
「ねぎらう」
 
ことができるのだと思う。
 
 
なので、「ねぎらう」ということは、
言葉づらだけで「ありがとう」と言ったりすることではなく、
 
 
「いかに深く、相手の労を想像できるか?」
 
「見えていることだけでなく、見えていないところまで
 相手に寄り添って想像できるか?」
 
 
ということなんじゃないかな?なんて思う。
  
 
深いねぎらいは、きっと、相手の日常全体を想像して、
 
「きっと、こんな日常なんじゃないかな?」
 
「その中で、自分のために時間を注いでくれたんだな」
 
「やることがたくさんある中で、
 エネルギーと想いを、注いでくれたんだな」
 
と考えられる力を持つこと。
 
 
そこまで深く思いを馳せられることができたら、
もう、感謝せずにはいられない。
 
そこまで想像の翼を広げておきながら、
相手を邪険にすることはできない。
 
 
湧き上がる感謝に包まれるように思う。
 
 
 
さてさて。
 
 
たぶん、
 
「感謝する力」
 
と、
 
「想像力」
 
は、とても近しい関係にあると思う。
 
 
相手の日常を想像する。
 
「普通」が、本当は普通じゃないことを想像する。
 
 
そんな、想像力があれば、
あとは勝手に感謝の気持ちがこみ上げてくるような気がする。
 
 
そんなことを書いている私も、
どこまで、みんなの日常に寄り添って想像できているかは
はなはだ疑問だ。
 
 
疑問なんだけれど、
 
「きっと、この人は、、、」
 
と、相手の視点で考えることさえできたら、
ほんの少しだけ、どんな人にも優しくなれるような、
そんな気がします。
 
 
長文、読んでくれて、ありがとう。
 
 
ではでは。

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