「守破離」って、あるやん?
ものごとを学ぶ順番、
というのでよく使われるんだけれど、
「守」~まずは教えられた通りやる。
↓
「破」~そこから自分に合った型を考える。
↓
「離」~自分のものとなる。
といったもの。
「守」ができていないうちから
自分の型を求めようとしても、うまくいかない。
「破」ができなければ
いつまで経ってもコピーに堕してしまう。
「離」ができなければ
それをマスターしたとは言えないだろう。
で、
この順番はとても大切なんだけれど、
それぞれがまったく別の「要素」であることにも
注意が必要だと思う。
「守」は、基本、action だ。
行動して、今までの自分を修正してゆく作業。
カラダを使うことだ。
なぜうまく行かないのか?には、2つの理由がある。
1つは、それについて未知だから。
もう1つは、過去の記憶が邪魔するから。
未知なことについては、知ればいい。
問題なのは、過去の記憶。
「だって、コレってこうじゃないの?」
という「思い込み」が、自分の成長を妨げるわけだ。
あなたがダイヤの原石だとしても、
磨かなければダイヤとしては光らない。
では、ダイヤの原石のまわりについているものは何か?
それは、思い込みと恐怖心とプライドだ。
それらを削って、初めてダイヤとなることができる。
削るためには、行動するしかない。
しかも、今までの自分とは違う行動を。
それが「守」。
で、
「破」となると、それは Think あるいは Feel になる。
行動ではなく、検証。
あるいは自分がどう感じるのか?
自分にもっともフィットする形は、どんなものなのか?
それを頭と心で咀嚼していくのが「破」だと思う。
カラダを使っていた「守」とは違い、
アタマとココロをメインに活用して
自分の奥へと深めてゆくんだろうね。
そして、
「離」。これは、Be 。
状態、あり方である。
自分自身が「それ」であるのが自然になる。
「それ」が自分の中に宿っていること自体に
なにも違和感がない。
なので、普段は意識しないようになるんだけれど、
いざ発動する時には、完全に自分のものとして発動できる。
そんな「状態」こそが「離」と言えるんじゃないかな?
でだ。
この「守破離」の難易度は、どれが難しいかなー
なんて考えてみたんだけれど、その問いに対しての答えは
立場により2種類あると思う。
個人的には、何かを学ぶ時には
「守」のステージが、一番ハードなように思う。
ある意味、過去の自分を否定しなければならないし、
未知のものを吸収する必要もある。
自分の中の「これって、ホンマかいな?」という
疑念とも戦いながら行動する、って、かなりキツいだろう、
と思う。
そして、「破」、「離」となるにつれて、
だんだんと自然になってゆき、キツいといった
感覚は薄らいでいくと思う。
しかしそれだけなく、もう一方の見方がある。
それは「教える側」「お伝えする側」だ、
何かを教える側に立った時は、
「守」が一番楽だ。
だって、自分が今までに蓄えてきたものを
相手にお伝えしているわけだから、
そこには困難さはない。
「守らせる」「行動させる」
というのは、たしかに困難を伴うけれど、
そこの難しさよりも、その後の方が
はるかにハードだと思う。
何かを教えていた人が、
自分がベストだと思っていたことを
「破」
してゆき、どんどんと成果を出してゆく。
そして、愛と情熱を傾けていた人が
自分のもとから
「離」
れてゆくのを、心から応援して見送るわけだ。
それは、「守」のステージよりも、
人間としての力が試されるように思うけれど、どうかな?
(ワタシの器が小さいだけかもしれんが。笑)
なので。
学ぶ側としては、
「守」を徹底的にやることを肝に銘じる。
それがどんなに理不尽に思えたり、
非効率だと思えたとしても、
自分がその教えを選んだのであれば、
プライドをゼロにまで削り落として実行する。
そんな気構えが必要だと思う。
そして。
教える側、お伝えする側としては、
「破」、そして「離」を心から歓迎する。
自分より大きなステージに行くことを奨励する。
その人らしさが溢れることを尊敬の念をもって応援する。
そして、
自分から離れてゆくことに笑顔でいる。
巣立ってゆく、「親離れ」してゆくことを光栄に感じる。
自分のお伝えした「それ」が、
お伝えした人のものになったことを喜ぶ。
それが大切だと思う。
教えている時は
「守」を厳しく言うくせに、
それができた人が
自分のベストを「破」して、
自分から「離」していくことに
目くじらを立てるような先生は、クズだ。
そんな先生のもとには、
「その先生以上」
になった人がいないから、一発で見破れる。
そんなコントローラーに出会ったら、
後ろ足で砂かけながらダッシュで去っていい。
(↑個人的見解)
さてさて。
何かをする時に
「守破離」
は、大切。
それは、学ぶ側も、お伝えする側も。
学ぶ側に「守」の大切さを説く者は、
同時に、その何倍も、自分自身に「離」の大切さを
染み込ませる必要がある。
それが、美しい循環であると思うから。
学ぶ時も、何かをお伝えする時も、
肝に銘じておきたいと考えております。
ではでは。
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