いや、ちっとも悟ってないワタシですが。
「悟る」ということについて、
ストンと腑に落ちたので、今回はその話。
たとえばさ、失恋とかしますやん?
あ、失恋じゃなくてもいいよ。
大きな金額的損失とか、
何かしらの期待を大きく失った時とか。
そういう時って、
やっぱり悲しくなったりするし、
あるいは怒りが湧いてきたり、
「なんとかこれを回避できないか?」
と知恵を絞ったりもする。
でも、それらすべてが
まったく無効という現実が待っていたりする。
すると、ある時ふっと。
本当にポロっと何かが取れるように、
「ああ、そうなんだ」
と、現実をそのまま受け入れることが
できる時が来る。
そして、
今までたくさんの感情を持っていた対象に向けて、
心の底から、エゴを抜いた形で
「ありがとう、元気で」
を言うことができ、
「あ、全部自分が招いたことやんけ」
と、卑下も奢りも思い込みもなく
スッと腹に落ちる。
そんな時って、ありますやん?
これを読んでいるあなたなら、
絶対、今までにそんな経験、ありますやん?
自分や相手に無理やり押しつけた感謝ではなく、
「あ、そうなんだね」
と、現実をまるごと受け入れて
相手から手を放す瞬間。
それはまるで、重病になった人が
1.否認
2.怒り
3.取引
4.抑鬱
というプロセスを経て、
やっと受容の段階に至るように
そんな時を迎えたりする。
そう。
「ああ、そうなんだね」。
たったこれだけを手に入れるために
膨大な感情エネルギーを
メルトダウンさせ続けるわけだ。
でも、このメルトダウンがあってこそ
「ああ、そうなんだね」
にたどり着くことができるし、
もし何かを受容できないのであれば、
それはまだメルトダウンが
足りていないということなのだろう。
だから、
「解釈を変えてみよう」とか、
「なんたら学的になんちゃらで」とかやるのも、
単純に怒ったり悲しんだりするのも、
根っこのところは同じで、
そのすべては旅の途中なのだろう。
(人様に迷惑をかける範囲は変わるだろうけど)
そして。
誰しもひとつやふたつはあるだろう、この
「ああ、そうなんだね」
体験。
これを、文字通り
「すべてのものごと」
に対して、その境地に至った状態こそが
「悟り」
ということなんじゃないかな?と思った次第。
世の中の森羅万象に対して、
昔に愛し合い、そして別れた恋人に対する
「ああ、そうなんだね」
「ありがとう、お元気で」
という境地に至ったのが、悟り。
そんなことなんじゃないのかな?
おいおい、難しいじゃないかよそれ。
でも、だとしたら。
日々、いろんなことで迷ったり、
怒りを感じたり、悲しみを感じたり。
取引を講じてみたり、
自分をあざむいてみたり。
そんなことは、生きている間は
実はとても大切なのかもしれないよね。
いや、この世に生まれてきたのは
別に悟るためじゃない、と思う。
でもまぁきっと、
何か誰かを愛し、因と縁を持ち、
「ああ、そうなんだな」
に、最後行きつくように
生きてゆくんだろうなぁ、なんて思う。
そのために、色んな
因や縁や愛や推しを集めてゆくのだろう。
その結果や経過で湧いてくる
ネガティブな感情や打算。
それらは、何かについての執着を
ポロっと落とし、祓うための
プロセスなのかも。
だとしたら、カッコ悪くても、
あがく時間も必要な事なんだろうね。
さてさて。
今、何かに対して
もがいていても、きっとそのうち
「ああ、そうなんだ」
「ありがとう、お元気で」
と言える時が、ふと、ポロっとやってくるだろう。
そんな日が来るまで、
いろんなことにジタバタしたいと思います。
な、お互いジタバタしようぜ、大丈夫。
ではでは。