今回の話は、ちょっとキツめかな?
世の中を二つに分けて考えるのは、
シンプルに理解する上で便利だ。
「世の中は、AかBという見方で
見ることが出来る」
っていう捉え方ね。
もちろん、それがすべてではないんだろうけれど、
2つの側面である「AとB」の設定を考えるだけでも
けっこうな頭の体操になる。
その中で、今回は
「商業主義」と「求道主義」というフィルターで
ものごとを見てみようと思う。
片方の「商業主義」。
これは、「売れるものこそ、いいモノだ」
という理念がベースになっている考え方だ。
より、多くの人のニーズに合ったモノやサービスを提供し、
喜んでもらうことこそが至上。
もちろん、喜んでもらったら、その対価を受け取るし、
それで自分を含めてハッピーになるのが、素晴らしい。
という考え方。
そして、もう一つの「求道主義」。
これは、「今売れるかは関係ない。本質的価値を極める」
という理念。
本質的な価値を求めるために、極限までストイックに
道を求め続ける。
常人にはわからない世界になっても、それは構わない。
何世代か、何世紀か後に必要となるかもしれないが、
必要となるかどうかはともかく、
「真理」により一歩でも近づく。
というあり方だ。
当たり前だけれど、
どちらが優れているとか高尚だとかを
論議するつもりはない。
そもそも、こういう二項対立軸は
あきらかな優劣があったら、対立軸にならないからね。
どちらも正しいし、どちらも価値がある。
商業主義は、我々に直接的恩恵をもたらしてくれる。
この世の人工物で、ビジネスを通さずに提供されるものは
極めて少ない。
「より多くのニーズにマッチしたものを提供した者が
より富むことが出来る」
というのは、人類が作ったルール上、
まぁまぁ悪くないルールとも言えるだろう。
それに対する求道主義も、美しい。
「すでにこの世にあるものを模倣・実施するだけでは、
本質的価値は創造されない」
というスタンスこそが、人間に新しい価値をもたらしてくれる。
そして、人間の無限の可能性に気づかせてくれる。
現に、数世紀前に解かれた数学上の問題が、
現代になって、科学技術上なくてはならないものになっていたりする。
数学だけでなく、音楽、文学、絵画などの芸術。
さらに人間の「こころ」の問題なども、
求道主義に生きる人が過去にいなければ、
現在の我々の生きる姿は、ない。
もちろん、商業主義にも「求道」的要素はあるだろうし、
求道主義の中にも、「どう伝えるか?」という
相手のニーズを考える部分もあるだろう。
ただ、今回は分かりやすいように
純粋な二項対立にさせてもらうね。
さて。
今、我々が普段生活している日常では、
「商業主義」を目にすることの方が多い。
商業主義で作られた音楽が街に流れ、
商業主義で綴られた、分かりやすい内容の
本や映像があふれ、
商業主義で多くの人が人生の大半を過ごす。
「そんなの、イグゼロさんに言われたくないわ!」
と思った人、その通り!
だから、言ってるべ?
どっちが良いとか、そんな話はしていないって。
株式トレーダーで、
マーケティングとかの勉強している私は、
完全に「商業主義」の一派です。
ただ、私の見えていない世界。
「求道主義」に、人生を捧げると決めている人には
畏敬の念を抱かずにはいられない。
現世利益なんて、邪道。
それよりも、たったひとつの数式を解くことに
人生全てをかける。
売れる、耳慣れた音楽なんて、邪道。
それよりも、人類が今だに触れたことのない
1フレーズの音を生み出すことに、生涯を捧げる。
全員が「素晴らしい」と絶賛する絵なんて、邪道。
それよりも、自分がこの世から旅立つ前に
思い描いている色をキャンバスにとどめておきたい。
「今、売れる」流行を追うなんて、もってのほか。
たとえ「カビの生えた伝統芸能」と言われようとも、
丹念に、歴史を重ねた方法を用いて、人生を全うする。
これも、「求道主義」のひとつの形だろう。
そんな生き方を、心から美しいと思う。
もう、私にはできないだろうし、
たとえ今から「求道主義」に方向転換しても、
ずっと貫いて来た人の境地には立てないだろうからね。
でだ。
これまたハラグロな私に言われたくないだろうけれど、
どうも最近気になっているのが、
「感謝」
について。
なんか、いつの間にか、
「感謝」ですら、あまり質の良くない「商業主義」に
洗脳されてない?
「商業主義」は、悪くない。
ただ、質の低い、薄っぺらい「商業主義」は、
単なる自己満足の「求道主義」と同じように
始末が悪い。
年がら年中
「感謝、感謝、カンシャ~~」
って言っている人がいる。
その人は、
「感謝」を「自分が幸せになるための取引材料」
みたいにしている。
「感謝していれば、幸せになれる」
という考え方の根本には、
「自分が幸せになる」
という「取引」が見え隠れする。
脳みそをお花畑でいっぱいにして、
「いつもありがとう」
「今、ここにいられることに感謝」
なんて言っている人を見ると、
「商業主義も、ここまできたか」
「感謝ですら、マーチャンダイジングされるわけか」
なんて思ってしまう。
自分の「お友達」という「消費者」に
「感謝」という「ニーズにあったもの」を提供し、
その対価として「自分の幸せ」を手に入れる。
そんな薄っぺらい感謝ばっかりして、
ホント幸せ?
とか思っちゃうのは、私がひねくれているからか?(笑)
まぁ、自分の本に
「感謝を悪用しよう!」
なんてお勧めしている私が言うのも変なんだけれど、
あまりにお粗末な気がして、書いちゃう次第。
「感謝を悪用」
「感謝もマーチャンダイジング」
それも、いい。
まったくやらないよりは、ましだろう。
でも。
「誰にも気づかれない感謝」
「言葉や態度で伝えるのではなく、
心から湧き上がる、頭が下がる思い」
「頭で“感謝しよう”とするのではなく、
いつの間にか、ふわりと舞い降りていた念」
なんていうのもないと、
バランスが悪いかもしれないよね。
まぁ、年がら年中「カンシャカンシャ」言っている人も
心の奥では、そう思っているかもしれないから
表面から批判できないのだけれど、
はらわたに火箸を突っ込まれるような、
ズン!と奥に響くような感謝の念、
みたいなものも大切にしたいな、と思う次第。
たまには、「求道主義」ではないけれど、
誰からも気づかれないけど、
それでも数世紀、数世代先の人も、同じような気持ちを共有できる、
そんな念を抱いても、悪くはないかもしれないね。
以上、もっとも「感謝」を語ってはいけない
イグゼロがお送りしました(笑)
ではでは。