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言語化の宿命。

おかげさんで、まぁコトバを使うものとして
生きていけているのだけれど。
 
そうだからこそ、言葉の持つ長所も分かるし、
逆に短所…というか限界みたいなものも戒める。
 
 
世の中には、言葉の他にも、
絵画や、歌、音楽、ダンス、写真、
スポーツや技術の提供など、様々な発信方法がある。
 
 
その中で、言葉は、最も
「人に行動をうながせる」という力を持つ。
 
 
シンプルな例を言えば、
 
「目の前のリンゴを取ってください」
 
というのを、絵画や音楽やダンスや写真で伝えるのは
極めて困難でしょ?滑稽ですらある。
 
 
でも、言葉であれば、相手がその言葉を理解すれば、
行動をうながせるだろう(実際行動するかは別だけど)。
 
 
 
ただ、この特徴があるからこその限界がある。
 
 
例えば、死を目前にしている人に対して、
あるいは、大切な人を亡くした人に対して、
なんと言葉をかけるのがベストなのだろう?
 
特に、そこまで関わりが深くない人の場合、
言葉は完全に無力だ。
 
 
それは、その人にうながすものがないからだ。
そんな時、何かをうながすべきじゃない。
 
だからおそらく、言葉より、一緒に音楽を聴いた方がいい。
仮に言葉をかけるにしても、飾り気は一切なくなるだろう。
 
それが言葉の持つ力の限界のひとつだろう。
 
 
 
そして、もう一つ。
  
 
言葉は「うながす力」を持つからこそ
逆に言えば、見方の方向を示唆し、
思考の範囲を狭くし、固定化させることにもなる。
 
 
たとえば、りんごを目の前にして
 
「赤いね」
 
と言えば、りんごを「赤いもの」として見るように
うながしていることになる。
 
「青森の鈴木さんが作ったんだ」
 
と言えば、そう見る。
 
 
ここに言語化の長所と危険性がある。
 
 
一度言語化すると、
「解釈の方向性」と「意味」が決まるので、
そこで思考が一度落ち着いてしまう。
 
 
 
なんか、えもしれないモヤモヤがあった時、
 
「それはストレスだね」
 
と言われると、「ああストレスなんだ」と
一度「答え」が分かったような気になってしまう。
 
 
まったく知らない植物を見た時に、誰かに
 
「ああ、それはセイタカアワダチソウだね」
 
と言われたら、なんとなく分かったような気になり、
「へぇ~」で終わる。
その植物について、何も分かったわけではないのに。
 
 
 
言葉の最大の長所は、最大のネックでもあるわけだ。
 
 
 
いやいや!
 
だからと言って
 
「何も言語化するな!」
 
って話じゃない。
そんなこと言ったら、言葉が何も使えなくなる。
 
 
そうじゃなくて。
 
 
「言葉には、うながす力がある」
「言語化すると、そこで方向性と意味が、一度固定する」
 
という言葉の持つ宿命的な力を知りながら
言葉を使わないとなぁ、なんて思うわけ。
 
 
 
固定することは大事。
 
ただ、思考という意味においては、
それは、崖に打ち付けたピッケルみたいなもので、
そこを足場にして、さらに思考を続けるという選択肢も
忘れちゃいけないな、なんてことも考える。
 
そして、はじめのピッケルを穿つ方向によっても、
そこからの思考の展開も、おのずと決まってくる、
なんてことも、片隅に置いておかないとな、なんても思う。
 
その最初のピッケルのひと振りを「人格」と呼ぶのかもしれない。
 
 
 
さてさて。
 
 
今回は、とんでもなくめっちゃマニアな話なので、
たぶん反響は少ない(笑)
 
 
でもまぁ、私たちは言葉で思考することが多いし、
ふだんから言葉を使ってやることも多い。
 
 
だからこそ、言葉の持つ特性や、
言語化するということの表裏を知っておくと、
ええやんな?というハナシ。
 
 
少なくとも、言語化至上主義みたいに
 
「なんでも言語化しよう!」
「すべて言語化できるはず!」
 
なんてならんよう気をつけたいと思います。
 
 
だって、世界は、言葉より美しいから。
 
 
ではでは。
 
 

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