「あの時、あいつさえいなければ・・・」
男は、過去のトラウマをまた思い出していた。
男は自分の人生は順風満帆だった、と回想した。
何不自由なく育てられ、愛を注がれ、
大人になってからも友達や恋人に恵まれ、
仕事もプライベートも充実していた。
「それを、、、あいつが。。。」
男の目の前に、さわやかな笑顔で現れたあいつ。
あいつは、男よりもすべての面で勝っていた。
外見も、性格も、男らしさも、頭の良さも、経済力も。
「あいつが現れなければ、
俺の人生はもっとましだったはずだ」
男は現在の自分の恵まれない境遇を嘆きながら
過去を反芻した。
いつの間にか、優しかった友人は
あいつに奪われていたように思う。
俺に好意を持っていた女性も、
きっとあいつが騙して奪っていったに違いない。
仕事の調子も、
あいつの登場のせいでガタガタになってしまった。
すべてが、あいつのせいだ。
「せめて、あいつのことを忘れることができたなら。。。」
俺は馬鹿ではない。
過去を振り返ってもしょうがないことくらい、
分かっている。
ただ、どうしても何かをやる時に
あいつへの憎しみが頭から離れなくなり、
本来の力が発揮できなくなってしまう。
今、人生の歯車がうまくまわらないのは、
あいつへの感情的な執着心や、コンプレックスが
あるからだ。
もう、あいつは俺の日常に現れることはない。
なら、忘れることさえできれば、
すべてが好転するに違いないのだ。
なのに、、、、なのに、、、、
「では、忘れさせてあげましょうか?」
男が一人で苦しんでいると、
どこからともなく声が聞こえてきた。
あたりを見回すと、いつのまにかそこに
尻尾を生やし、紫色の肌をした
不思議な生き物が立っている。
「誰だ?お前は?」
「私はモノワスレ。人の記憶を食べる妖怪です」
男は、突然現れた妖怪をまじまじと見つめた。
モノワスレと名乗った妖怪は、
そのまますらすらとしゃべり始める。
「誰だって、忘れたい記憶のひとつやふたつは
あるものです。
私は、当人の望んだ記憶を食べることができます。
私が食べた記憶は、その人からきれいさっぱりなくなり、
すがすがしい気持ちになれますよ」
と言うと、妖怪は、男の疑問に先んじるかのように、
「私は、強く忘れたいと願っている記憶を
お持ちの方の前に現れ、
それをかなえてあげているわけです」
と続けた。
男は目の前にいる妖怪をしげしげとみつめながら
「しかし、お前のような妖怪、
今まで聞いたこともない」
と疑うように言うと、モノワスレは
「私も、もっと人々に知られてもいいとも思うのですが
なぜか有名にはなりませんね。
みんな、忘れてしまうのでしょうか?」
と肩をすくめた。
男はさらに質問をしようとしたが、やめることにした。
真偽はともかく、もし本当に記憶を消せるのならば
これほどありがたいことはない。
「いいところに来てくれた。
ぜひひとつ、俺の記憶を消してほしいんだ。
ちなみに、そのかわり何か代償を支払うのか?
たとえば、魂を持っていかれるとか?」
「まさか。私はあくまでも妖怪。
そんな西洋の悪魔のような真似はいたしません。
あなたは必要ない記憶を消せる。
私はそれを食べてお腹が満たせる。
それだけでございます」
男はそれを聞くと安心し、
「では、さっそく。。。。」
と、男を苦しめ続けているあいつの名前を口にし、
「彼に関する記憶のすべてを食ってしまってくれ」
と妖怪に告げた。
モノワスレは二コリと
「承知いたしました」
と男に笑顔を向け、耳まで割けた口を
がばりと大きく開けたかと思うと、
ごくりとつばを飲み込みながら口を閉じた。
ゴチソウサマデシタ。
「さあ、これであなたの中から
望んだ記憶はなくなりました。
ご気分はいかがですか?」
モノワスレは男に声をかけると、
男は、
「。。。たしかに、何か大きなつっかえが
取れたような気もする。もう思い出せないが。。。」
と答えた。
「それは大変、よろしゅうございますな」
モノワスレがそう言い終わらないうちに、男は
「いや!ちょっと待て!
俺をこんな風にした最大のトラウマは、
まだ残っている」
と叫んだ。
モノワスレは一瞬、驚いた顔を見せたが、
「さようでございますか。
それはさぞかしお辛いことでしょう。
では、それも私が食べてしまいます」
と目を細めながら、ペロリと舌なめずりをした。
男は、
「俺をこんな風にダメにしたのは、昔の恋人だ。
彼女と出会ってさえなければ、
俺の人生は順風満帆そのものだったのだ」
と言い出した。
ほほう、とモノワスレは男の言い分に耳を傾け、
「それは大変でしたね」
「さぞかしお辛いことでしょう」
と同情をした。
そして、男の話を充分聴き終わった後、
「では、そんな記憶、忘れてしまいましょう」
と言い、口を大きく開いた。
がばり。ごくり。
ゴチソウサマデシタ。
「さ、これで。。。。」
「いや!待て待て!
まだ最大のトラウマが残っているじゃないか!」
「ほほぅ」
男は、記憶のひとつ忘れると、
また別の人間をあげつらい、
どれだけ大変だったのかを語り出した。
そして、
「あいつさえいなければ、
今の俺は、もっとましだった」
と嘆いた。
古い友人、昔の同僚、
幼なじみ、兄弟。そして、父、母、、、、
ある時までは、「最大の恩人」だった人が、
「最大のトラウマ」になることもしばしばだった。
しかし、男は見事なまでに
過去の記憶を組み替え、その相手がどれだけ自分に対して
ひどい仕打ちをしたのかを、スラスラと語るのだった。
男の話には、迷いは一点もなかった。
なぜなら、男にとっては
その時に話をしていることが「真実」だったからだ。
男は、今の自分の現状は、
過去のトラウマにあると言い続けた。
ひどい現状が変わらない限り、
男の過去は、男の中で次々と作り変えられてゆくのだった。
妖怪は、男が熱心に語るたびに
「さようでございましたか」
「さぞ、お辛かったことでしょう」
と男に同情し、男の願う記憶を食べていった。
がばり。ごくり。
ゴチソウサマデシタ。
ゴチソウサマデシタ。
ゴチソウサマデシタ。。。
男の目は、だんだんとうつろになっていったが、
記憶を次々と食べられ続けた。
そして。
「。。。そうか、ようやく気付いた。
俺の最大のトラウマを食べてもらうぞ。
俺がこんなになってしまったのは、
全部、全部、モノワスレ。お前のせいだ。
お前が目の前に現れるまでは、
俺の人生は、順調そのものだったんだ!
俺の中から、お前との記憶を全部食べて、
目の前から消え去りやがれ!!」
妖怪は、ただ目を細め、
「さようですか、、、
それは、さぞお辛かったでしょうな」
と、静かに答えたあと、口を大きく開いた。
がばり。
ごくり。
。。。ゴチソウサマデシタ。
モノワスレは、最後のひと口を食べ終わると、
「私が、誰からも知られない妖怪である理由、
分かりましたかな?」
と言って、男の前から姿を消した。
後には、男だったものが残った。