「世界は暗い」
彼女は、どんよりとした街並みを見ながらつぶやいた。
灰色のビル。そこで、うつむきかげんに働く人々。
薄いグレーに濁った新聞紙面に印刷された、
どこかで起きた陰鬱な事件。
明るい画面に映し出される、一見健康的な映像も
その背景には、汚れた思惑が見え隠れする。
こんな世の中で、能天気に明るく振る舞えるわけがない。
彼女はため息をつきながら、自宅である
築何十年も経つ賃貸アパートへと帰って来た。
ところどころにしみの目立つ部屋。
ごみ箱には、昨日の残飯が放り込まれている。
「こんなつまらない世の中で、
他の人は一体、何を楽しみにしているのかしら?
他の人から見たら、この世界がどんな風に見えるのか、
一度おがみたいものだわ」
冷凍食品を解凍しながら、彼女は独り言で
いつもの口ぐせを口走った。
他の人には、この世界がどんな風に見えているんだろう?
こんな疑問を持ち始めたのは、もう何年前のことだろう?
ぼんやりとだけれど、幼い時からずっと不思議に思い、
「いつか見てみたい」と思っていたような気もする。
もちろん、まだ何も知らない少女だった頃は
今とは違う、もっと純粋な好奇心だったとは思うけれど。
「いつから?そんな事も、くだらないことよね」
彼女はまた独り言をつぶやきながら食事を終え、寝る準備を整えると、
今朝起きた時のまま無造作に丸まっている布団にもぐりこんだ。
その夜。彼女は夢を見た。
夢では、彼女の枕元に翼のはえた少年が立っていた。
その少年は、
「すごいね!
ボクも今まで色んな願いごとをされてきたけれど、
こんなに何年も何年も同じお願いをされてきたのは初めてだよ!」
と、やや興奮気味にまくしたて、
「キミが今夜、寝る前にお願いしたのが、なんと百万回目!
おめでとう!明日一日だけだけれど、
キミは他の人から見た世界を見ることが出来るよ!
楽しんでね!」
と言うと、すぐに枕元から飛んで行ってしまった。
次の朝、彼女は、
「変な夢。でも、やけにリアルだったな。。。」
と不思議に思いながら身支度を整えると、
自分の職場へと向かった。
あいかわらずの、どんよりとした空。
そして、ため息をついているように見える人々。
職場についても、いつもと変わらない事務作業に追われる
普段と何も変わらない一日。
デスクの向こうでは、毎日のように怒鳴り散らしている上司が
今日も声を荒げていた。
彼女はそんな光景を見ながら、ふと
昨日見た夢の事を思い出していた。
「そういえば、夢では今日一日、
他の人から見た世界が見られるって言っていたな」
彼女は「ものは試し」と、
怒鳴っている上司に向かって
「あの上司に見えている世界を見たい」
と、心の中で念じてみた。
すると、
彼女の目の前が一瞬だけ真っ暗になったかと思うと、
次の瞬間、視点が変わっていることに気がついた。
「え?あれ?」
今、彼女が座っているところからは見えるはずのない視点が
目の前に広がっている。
見える景色の遠くには、なんと彼女自身の姿も見てとれる。
天使が言っていたことは本当だったのだ。
彼女は今、上司の見ている世界が見えていることに気がついた。
しかし、そんな視点の変化が
どうでも良くなるような事実があった。
色が、違うのだ。
彼女には白く見えていたオフィスの壁が、
上司の視点から見ると、濃い赤に見える。
グレーのはずのデスクも、下品なピンクに見えるし、
落ち着いた紺色のスーツも、派手な黄色に見える。
形は変わらない。ただ色がまったく違うのだ。
上司は、こんな世界で生きているの!?
私が「白い壁」だと思っていたのは、上司にとっては赤で、
でもそれを同じく「白」と表現しているの!?
彼女は、「上司に見えている世界」の落ち着きのなさに
気分がムカムカとしてきた。
こんな落ち着きのない色に囲まれていたら、
誰かれ構わずに怒鳴り散らしたくなるのも
分かるような気がする。
彼女は逃げ出すように、
「上司の世界」から「自分の世界」に戻ってきた。
自分の世界に戻ってくると、
視点も自分自身がいる場所からのものに戻り、
なにより周囲の景色が普段見慣れている、
どんよりとした色に見えるように戻った。
「これって、もしかすると、他の人も。。。?」
彼女は、職場の他の人の視点にも
入りこんでみることにした。
すると。
仕事をバリバリこなす先輩の視点に入りこんでみると、
彼の世界には、ほとんど色はなく
「ハッキリとした白か黒」
が大半を占めていた。
いつも、ぼーっとしている同僚の女の子の世界は
ぼんやりとしたパステルカラーで彩られていた。
職場で人気のある後輩の女の子の世界は、
キラキラと輝く、センスのある配色で構成されていた。
人それぞれ、見ている世界は違う。
それは理解していたものの、こんなにも色が違うなんて
想像すらしてみなかった。
みんな、まったく違う色を見ているのに、それに
「赤」とか「青」という名前をつけて、
「赤は情熱の色」とか、
「青を見ると落ち着く」なんて言っている。
見ている色は、真逆だったりもするのに。
今日の彼女は、まったく仕事に手がつかなかった。
それもそうだ。人の見ている世界が、
こんなにも違うことを知ってしまったのだから。
彼女は帰りの電車の中で考え込んでしまった。
「みんな見ている世界が違う。そして世界を彩る色が違う。
怒りっぽい人は、落ち着かない色の世界を生きていて、
輝いている人は、キラキラ輝く色の世界を生きている。
それだったら、幸せになるかどうかなんて、
生まれた時に決まっちゃうのが、当たり前じゃない」
自分に与えられた、この世界の色。
どんよりと曇った、灰色の世界。
「私がこんな性格なのも、仕方のないことなのね。。。」
そこに。
「あっ、すみません!」
と、一人の少女が彼女にぶつかってきた。
その少女は白い杖を手にしながらも、
ぶつかってしまった彼女の肩をなでながら
「大丈夫ですか?」
と、心配そうに声をかけた。
彼女は少女に向かって大丈夫なことを告げると、
「あ、じゃあ私この駅で降りるので。。。」
と、電車を降りた。
どうやらその少女も同じ駅で降りたようで、
ふと気づくと、彼女の前を歩いていた。
少女の足取りは軽く、
ピョンピョン飛び跳ねている感じだ。
まるで、鼻歌を歌いながら
スキップしているようすら見える。
彼女は、なんとなく少女に興味を持って、
話しかけてみた。
「さっきはありがとう。
楽しそうだけれど、なにか良いことがあったの?」
「あ!さっきのお姉さん。
こちらこそありがとうございました!
うーん、これといって特別な事はないけれど、
わたしって、いつもこんな感じなんです」
少女は少し照れくさそうに笑った。
彼女は少女を見ていると、
こちらも不思議とウキウキした気持ちになってくる。
少女は彼女に
「お姉さんは、お仕事帰りですか?
いいなー、私も大きくなったら
お姉さんみたいにバリバリ働くんだー」
と、憧れの視線を向けてきた。
そして、手にしている白い杖を軽く振りながら
「わたし、ちょっとだけ目が悪いんです。
でも、この杖は大げさ。
ママが持ってなさい、って言っているだけ。
でも、コレのおかげで、みんなに親切にしてもらえるから
ラッキーかも」
と、また屈託のない笑顔を向けた。
彼女は好奇心から、
心から明るく笑う少女の「見えている世界」に
入りこんでみることにした。
目が悪いといっても、
きっと明るい色どりの世界が見えているに違いない。
彼女は少女の世界の色を感じた。
「これって。。。」
彼女は言葉を失った。
少女の世界はどう見ても、
彼女の世界とは比べ物にならないくらい暗く、
もの悲しげな色彩であふれていたからだ。
少女が言うように、たしかに盲目というわけではなく、
ものの輪郭は、しっかりと見える。
ただ、見ているだけで孤独を感じてしまうような
暗く、重い色が支配していた。
彼女は「自分の世界」に戻ってくると、
少女にたずねた。
「どうして!?
どうしてあなたは、そんなにニコニコしていられるの?」
少女は答える。
「えー。
どうして?って言われると困っちゃうなー。
でも、まわりが良い人ばっかりじゃないかな?」
彼女は矢継ぎ早に質問をする。
「親が素晴らしい人なの?」
「そうだね。
わたしの本当の親はもう死んじゃっていないけれど
とっても素敵なパパとママだよ!」
「生まれた時から、見えにくいの?」
「前は普通に見えてたんだけれど、
わたしおっちょこちょいだから、車にはねられてさ。
その後の、後遺症?ってやつらしいよ」
「そのあと、つらくないの?」
「うーん、あんまり考えたことないけど、
別にそんなに困るわけじゃないし」
彼女には、分からなかった。
少女がなんで、こんなに明るいのか?
そこで彼女は、もう一度「少女の世界」に入り込んでみたあと、
そのままの状態で少女に質問をしてみた。
「ねぇ、変な質問だけれど、
いま見えている景色、何が見える?」
いま、彼女と少女が見ている世界は、
寸分違わずに「同じ世界」だ。
見えている景色も、角度も、その色彩すらも。
彼女には、あいかわらず孤独感に引きずられるような
景色にしか見えない。
すると、少女はすぐさま答えた。
「あ!あそこでおじさんが犬をなでてる!
かわいーねー。
おじさんもワンちゃんも、とってもうれしそう」
彼女は、少女の言葉を聞いて愕然となった。
そう言われてみれば、ずっと遠くの方に目を凝らすと、
どこかの中年と犬がたわむれている。
「全く同じ世界を見ているはずなのに。。。」
彼女が「自分の世界」に戻ると、
隣で少女は、あいかわらずコロコロと無邪気に笑っていた。
少女は
「あ!ママだ!
お姉さん、ありがとう!おかげで楽しい帰り道だったよ。
また電車の中で会ったら、声かけるね!」
と言って、彼女に手を振り母親のもとへと
急ぎ足で向かって行ってしまった。
「世界の色、か。。。」
どうやら、世界の色は人それぞれ違うらしい。
そして、見えている世界の色は
自分では、どうすることも出来ないのかもしれない。
天使の話では、今日の体験は一日かぎり。
明日には、他の人の世界に入ることはできなくなる。
彼女は、彼女の世界と、彼女の世界の色で
生きて行く事になる。
「でも。。。!」
少女と別れた彼女は、空を見上げた。
灰色のビルの合間から見える空。
そこには、星があった。
彼女は、普段は見上げもしない空に
じっと目を凝らした。
しばらく見ていると、彼女には、
その星たちが、今まで思っていたものとは
少し違う色で輝いているように見えてきた。