最近、ちょっとじっくり考えてみたんだけれど、
「幸せのため」
に成長をしようとしても、
その期待は裏切られ続けるのではないか?
と思うんだよね。
小さな規模では、個人の成長。
もっと大きな規模では、社会や技術の進歩。
それらは、実は「幸せのため」には
あまり役に立っていないような気がする。
もちろん、昨日できなかったことが
今日できるようになった、
というのは、とても価値のある事だ。
だけど、
「今よりもっと幸せになるために成長しよう」
としても、その期待は、たいてい未消化のまま終わる。
なぜならば、
成長して新しいことができるようになると
さらにレベルの高い成長目標が見えてくるので、
「あー、まだまだかぁ」
と思い知ることになるから。
また、なぜだか分からないけれど、
成長すればするほど、また新しい、大きな問題が
身に降りかかってくることも多い。
もし成長、進歩が「幸せのため」なのだとしたら、
昔の人よりも現代の我々の方が
より多くの幸せを感じなくてはおかしい。
しかし、現実としては、
現代に生きる人すべてが、昔の人よりも
大きな幸せを感じているかどうかは、正直微妙だ。
さらに、幸せになるためだったら、
進歩・成長するよりも、
「問題の解決を手放す」
「固執している考えを手放す」
というように、ある事柄への解決を放棄した方が
個人レベルでは幸せになる可能性が高い、
ということもあるくらいだものね。
「生きているものは、
成長か死のどちらかに進んでいる」
なんていう考え方もあるし、
そんな考え方も理にかなっているのかもしれない。
ただ、それは「幸せ」という切り口で考えた場合には、
どちらに向かって進んでいるのかは
実は無関係なんじゃないかな?
だから、
「幸せのために」
無理して努力して、進歩・成長なんて
しなくていいと思う。
そうではなくて、
「進歩・成長の過程そのものが幸せなんだ」
という風に考えた方がいいと思う。
進歩・成長は、
幸せになるための手段やツールではなく、
そのものに幸せを感じられるもの。
とした方がいいだろう。
昨日できなかった事が、今日は出来る。
昨日救えなかった命が、今日は救える。
昨日心を通わせられなかった人と、今日は通わせられる。
その実感そのものが「幸せ」なんじゃないかな?
なんて思うんだよね。
成長した結果、手に入れられるものが
私たちに幸せをもたらしてくれるんじゃない。
自分が成長していくプロセスの中で
感じられることそのものが、幸せなんだ。
そんな風に感じるんだけれど
あなたはどうだろう?
いずれにしても、
成長そのものに幸せを感じられないのであれば、
個人的には、成長を自分の中で義務化しなくても
いいと思う。
成長よりも停滞している方が幸せならば
そんな人を批判することは私にはできない。
成長したら、また次の問題や悩みがやってくる。
それは、この世から旅立つまで
どの人も直面することであるし、終わることはない。
人生とは、
「どのレベルの、何で悩むのか?」
を選択し続ける道程、とも言えるかもしれない。
(もちろん、悩みがまったくない
という時期もあるとは思うけれどね)
成長したら、成長した自分に合わせて、
ぴったりフィットした問題が準備されている。
停滞していたら、停滞している自分に合わせて
ぴったりフィットした問題がつきまとう。
どちらにしても、問題はあり続ける。
どの問題に取り組みたいのか?
をチョイスしていく道程なんだろうね。
隣の犬の吠え声で悩むのか?
「あと1万円あれば」と悩むのか?
家族の問題で悩むのか?
仕事で悩むのか?
経営で悩むのか?
地域社会のことで悩むのか?
人類平和で悩むのか?
どの悩みも、規模が違うだけで
個人個人にとっては、大きな悩みであるに違いない。
でも、その中で
「昨日できなかったことが、今日できる」
という、進歩・成長の喜びを励みにして、
旅を続けていく、という選択もあるんだろうね。
あなたが、あなたらしくありますように。
ではでは。