スポンサーリンク

体感の幹

「なんで、あの人がやると
 あんなに素晴らしくなるんだろう?」
 
「同じようなことをやっているはずなのに?」
 
みたいのって、あるやん?
 
 
先日も友人のセラピストさんと
話をしていたんだけれど、
 
普通の結果しか出せない人と、
とんでもなく素晴らしい結果を出せる人の違い。
 
 
それは、
 
「体感をともなっているか?」
 
に尽きると思う。
 
 
 
私の気功の師匠からも
ずっと言われ続けているのが、
 
「体感をともなったイメージがあれば、
 技は相手に効く」
 
ということ。
 
 
実際、何回も何回も
正確な「型」を繰り返し稽古し、
その「型」が体感値として体にしみ込んだ後は、
 
「型」が崩れていようが、
寝てようが、技として相手に通用する。
 
 
なんでやねん!?
と思うのだが、実際に相手が吹っ飛ぶ。
 
 
 
 
 
そしてこれは、
どれも同じことが言えるように思う。
 
 
同じ設定で写真を撮る。
 
シャッターを押すだけ。
 
なのに、誰かが撮ったものと、他の誰かが撮ったものは違う。
 
 
同じレシピで料理を作る。
 
あとは、そのとおり作るだけ。
 
なのに、やはり違う。
 
 
同じ施術をする。
 
やっていることは同じ、はず。
 
なのに、違う。
 
 
同じ言葉を言う。
 
間の取り方も同じ。
 
なんで響き方がこんなにも違うんだろう?
 
 
同じテーマで文章を書く。
 
文字数も同じで、キーボード叩くだけ。
 
なのに、やっぱり違うんだよね。
 
 
 
 
その違いは何なのか?
 
というと、「それ」に対する
「体感」の積み重ねの違い。
 
もっと言うと、別の体験も含めての
大地にどれだけ根を張っているのか?
という体感の違いが、大きな違いを生んでいるのだろう。
 
 
 
責任に対する姿勢。
 
相手に対する姿勢。
 
人生の本気さに対する姿勢。
 
 
 
そんな「体感」があればあるほど、
表面上は同じように見えることでも
異彩を放つ異才となるのだろう。
 
 
 
そして。
 
 
その「体感」の幹を太くするのは、
ほとんどの場合、辛く苦しい体験だったりもする。
 
特に、人間としての幹は、
つらい体験をし、そこから拗ねたり
ひねくれたり、押さえこんだりせず、
それを昇華した時に太くなるように思う。
 
 
 
なので、
 
 
今までやってきていることすべてが、
あなたの「体感の幹」となり、
他の人と同じことをやったとしても
偉大な成果を生む時が来ると思うんだ。
 
 
そのタイミングがいつかは、わからない。
 
 
でも、
 
すべての体験が、
あなたや、まわりの力になる時がきっとくる。
 
 
そんな風に思うんだよね。
 
 
 
がんばろうぜ。
 
 
 
ではでは。
 
 
 
 
 
 
 
 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク