ほら来たよ、来ちゃったよ。
しばらく「ホニャララとは?」と
いろんなものを定義してきた記事を発信していたところ
「イグゼロさん。
イグゼロさんにとって“定義”とはなんですか?
定義してください」
という、ありがたい「お題」が届いてしまった。
ぐおお!!
「定義」を定義するのかぁ~!
まさに心情としては
「ヤバいよ、ヤバいよ」
と言いながらリスクに突っ込む
某出川哲郎氏と同じ気持ちでいっぱいだ。
しかし、進もう!
そこに定義がある限り!(笑)
ってなわけで、現時点の私が定義する
定義とは、下記のようになった。
——
定義とは、
「ある言語を、普遍的に、過不足なく、
思考が整理・深化・推進するように言いかえること」
である。
——
説明を少しするね。
基本的には、「ホニャララとは?」と定義する時には
その「ホニャララ」は言語化されている。
言語になっていないものを言語にする時には
それは「定義付け」ではなく、「名付け」「言語化」だろう。
「ああ、この気持ちをどう表せばいいのだ?
ぬおお!ぐおお!
・・・ふぅ。これからこの気持ちを
“やるせなさ”と呼ぶことにしよう」
みたいな感じ?
(まぁ、実際にこんな風に名付けられたわけじゃないと
思うけれど)
なので、定義するのは、
必ず言語化されているものに限るよね?
さらに、個人的に大切だと思っているのは
「普遍性」
「過不足のなさ」
「思考の整理・深化・推進」
だと思う。
まず「普遍性」。
世の中のすべての人が納得!というのは
なかなか難しいとは思うけれど、
10人に言ったら少なくとも9人くらいは
「たしかに、そうだな」
と納得できるものであることが望ましいと思う。
誰か一人が、本人にとって納得できるものは
「定義」ではなくて「意見」「思い」だろう。
なので、定義する時には
出来る限り普遍性を保ちたいなぁ、と思う次第。
「普遍性」ってのは、また正確に定義するのは
また今後やるかもしれないけれど、
ここでは要するに
「例外がない」
みたいな感じに捉えてくれればありがたいかと。
そして、
定義したものを説明する言葉は、
限りなくシェイプしたものであることが
スマートで、エレガントだなぁ、と思う。
(これは個人的意見かもしれないけれど)
でも、だからと言って
別の意味に捉えることも出来たり、
穴があったりするのは、ちとハズカシイ。
なので、
「言葉は出来る限り少なく、シンプルに。
でも、不足はしていない」
というのが、定義する時には
とっても大事にしていることかなぁ、
と思う。
さらに。
これが一番大事かな?と思っているんだけれど、
定義をした後に、聞いた人の思考なり感情なりが
動かないのであれば、定義している意味がない、
と思う。
その「動き」は、
分類が分かりやすくなる、整理する方向であれ、
探究心に火がつく、深化する方向であれ、
行動に結びつく、推進する方向であれ、
どんな方向でもかまわない。
でも、定義したところで
「あっそ」
「ふーん」
とスルーされるくらいであれば、
定義なんてしないで、前の言葉のままで充分だ、
と考えている。
だから、普遍的で過不足なくという条件を
踏まえた上で、できるかぎりスパイスを効かすというか
エッジのある言葉を選ぶようにしたいな、
なんて思っているんだよね。
普遍的じゃなきゃ意味ないし、
過不足があっちゃダメだから、言葉を飾ってもいけない。
でも、その中で出来る限り
「おっ!?」
と思えるような言葉を厳選し、
聞いてくれる人の喉を刺し、ハートを射ぬく。
そんな言葉づかいができれば、最高だなぁ
なんて思う私は、もう「言葉のド変態」です(笑)
というわけで、私の考える「定義」とは、
「ある言語を、普遍的に、過不足なく、
思考が整理・深化・推進するように言いかえること」
と、現時点では、なっております。
ふぅ。
まぁ、ここまで書いて冷静に考えてみると、
こんな「定義とは?という定義」を読んでも
誰も面白くないんじゃね?
とも思うんだけれど、
「言葉のド変態」は、こんなことを考えながら
日々チマチマいろんなことを書いているんだよ。
と分かっていただければ幸いです。
と、今
「いろんなことを書いているんだよ」
と書いたところ
「いろんなことを欠いているんだよ」
と変換されたのを見て、
「ああ、さすが私のパソコンさんは
よく分かってらっしゃるなぁ」
などと感心する今日この頃です。
ってなわけで、素敵な週末をお過ごしください。
(なんじゃそら)
ではでは。