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運という、残酷なもの

 
“運”という残酷なものがある限り。
 
 
今まで自分なりに学んできたつもりだけれど、
まだまだ全然分からないことが多い。
 
 
その中でも、トップレベルに分からないのが
“運”というものなんだよね。
 
 
 
色々と学んできているものの中には、
 
 
「準備をした人のもとに“運”は訪れる」
 
 
とか、
 
 
「あり方で“運”は引き寄せられる」
 
 
とか、色々言われているのは、
多少は知っている。
 
 
 
 
でも、それは“運”そのものに言及はしていない。
 
 
 
 
 
幼くして亡くなる人、
生まれながらに障害を持っている人に対して、
 
 
「お前のあり方がダメなんだ」
 
 
「お前は、そう生まれてきた意味があるんだ」
 
 
なんて、私には言えない。
 
 
「運が良いように見える人も、
 実は影で努力や苦労をしているんだよ」
 
 
なんて、単なるごまかしに思う。
 
 
 
 
オリンピックの金メダリストと第4位の人に
それほどの努力の差があるのだろうか?
 
 
金メダリストは、金メダリストのあり方で、
 
メダルを取れなかった人は、
メダルをとれないあり方だったのか?
 
 
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
“運”だけでは、永続的な幸せは手に入らないかもしれない。
 
 
けれど、
 
厳然と、“運”というものは立ちはだかっている気がする。
 
 
ずっと光の道を歩む人もいれば、

一生、暗い道で終わる人もいる。
 
 
その違いって、何なんだろうね?
 
 
 
まぁ、結局わからないから
答えを宗教とかに求めることになるんだろうけれど、
不思議なものだなぁ、と思う。
 
 
 
別に私自身の運が良いか悪いかということを
話したいんじゃなくて、
 
どうして、人知では理解できない“運”というものが
あるのか、それを知りたいんだよね。
 
 
(まぁ、もちろん、その上で
 自分は運が良くなりたいとも思うけれど)
 
 
 
 
現時点では、結局理解できないので、
「ものさし」を変えるくらいしか、出来ていない。
 
この考え方も、その場しのぎのような違和感があるんだけれど。
 
 
 
 
いつも見ている風景じゃなくて、
すさまじく「大きいものさし」で見たら、
人間なんて、大して変わらない。
 
 
1歳で亡くなるのも、100歳で亡くなるのも、
 
年収ゼロでも、年収20億円でも、
 
家にずっといるのも、海外旅行に行きまくるのも、
 
乞食でも、王様でも、
 
 
そんなに大して変わらない。
 
そこに“運”なんて、ないとも言える。
 
 
でっかい視点で考えれば、
 
ミジンコみたいな小さいものたちが
 
「どっちが幸せか」
 
を競い合っているだけで、どっちでもいい、といえる。
 
 
 
 
 
いつも見ている風景じゃなくて、
すさまじく「小さいものさし」で見たら、
人生は大きく彩られる。
 
 
昨日の自分より、今日の自分は長生きだ。
 
10年前より、経験は増えている。
 
思い出も増えている。
 
出来ることも、多くなっているかもしれない。
 
 
そこにも“運”はない。
 
 
たとえ生まれてすぐに亡くなったとしても、
他の人がもっと長く生きていることと比較しなければ
“運”は関係なくなる。
 
 
他人と比較するのではなく、
最小単位の「自分」を見るものさしだったら、
“運”は、極限まで無意味になる。 
 
 
 
 
 
でも、
 
 
 
中途半端な長さのものさしで見ると、
色々と考えこんでしまう。
 
なぜ、あの人にあって私にはないのか?
 
なぜ、あの人が亡くなってしまうのか?
 
なぜ、自分は運がないのか?
 
なぜ、自分は運があるのか?
 
 
 
 
 
“運”とは?
 
 
これが自分の腹に落とせた時、
また違う風景が見えるような気がするわ。
 
 
それまでは、ごまかしごまかし
色んな見分を深めるしかないのかもしれないね。
 
 
 
うーむ、今日はオチがないなぁ(笑)
 
 
ま、たまにはこんな感じで。
 
 
ではでは。
 

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