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雑念の正体

雑念の正体は、すべて恐怖。
少なくとも私の場合は。
 
 
人に冷たくするのも、
怒りも、寂しさも、
必要以上に媚びるのも。
 
人への優越感も、
人への劣等感も、
優しささえも、
 
結果を出そうとするのも、
失敗を隠すのも、
充実のあと虚しくなるのも。
 
 
それが雑念である場合は、
すべての源泉は恐怖にある。
 
 
足りないのではないか?
愛されないのではないか?
 
そんな恐怖がそのまま、
あるいは正体を隠して
別の姿で雑念として顕れてくる。
 
 
恐怖は生きている限り、
あるいは悟らない限りなくならない。
 
 
だから恐怖とは、
 
逃れようとするか?
支配しようとするか?
共生しようとするか?
 
何らかで付き合っていくしかない気がする。
 
 
そして、面白いというか当たり前というか。
どの道でも、上手くいってる人はいる。
恐怖から逃げてうまくいってる人。
 
恐怖を支配してうまくいってる人。
 
恐怖と共生してうまくいってる人。
 
いろいろだ。
 
 
面白いことに、
恐怖から逃げている人は、
恐怖から逃げてうまくいってる
リーダーを求め、
 
恐怖を支配したい人は
支配的なリーダーを求め、
 
恐怖とともに生きていくこと望む人は
そのようなリーダーを求めている気がする。
 
 
いずれにしても、
恐怖からスタートした行動では
幸せになりにくいだろう。
 
 
恐怖の反対は好奇心。
 
あるいは人によっては
愛や使命と呼ぶだろう。
 
 
行動の最初の1歩が恐怖でなく、
好奇心や愛や使命である方が
幸せには、なりやすい。
 
 
実のところ、成功確率は
大して変わらない。
 
恐怖からでも成功する時はするし、
好奇心や愛や使命スタートでも、
うまくいかない時はたくさんある。
 
 
ただ、
 
恐怖スタートの失敗は
自分や他者を傷つける刃に向かわせ、
恐怖スタートの成功は、
それを失う恐怖を助長させる。
 
 
好奇心・愛・使命スタートの失敗は
恐怖を生むと同時に学びを生み、
それらからスタートした成功が
心の真の充足を生む。
 
 
だから。
 
 
恐怖と好奇心、どちらから始めるか?
 
 
何にベット(賭け)し、
どんな時はベットしないか?
 
 
それは明らかなのかもしれないな、と。
 
 
、、、そんなことをつらつら思う秋。
 
 
さて、あなたの雑念の正体は?
 
 
 
ではでは。
 

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